久我 田鶴子


われの名は魚と言えばああ鮎かと答えぬ不思議そうに見つめて

※「魚」に「さかな」のルビ。

飯沼 鮎子 『土のいろ草のいろ』 北冬舎 2019年

 

老いた父は、娘の名前をすぐに思い出せない。「私の名前は、魚だよ」というヒントで、「ああ鮎か」と答えてくれた。それでもまだこちらの顔を不思議そうに見つめて。

ほんとうに娘だと分かり、「鮎子」という名前だと分かってくれたのかどうか。心許なさが読後に残る。

何度も何度も呼んでくれた名前だろうに、親が子の名前を忘れてしまうということもある。元気で頼もしかったはずの人が、次第に老いを深めてゆく姿。父の老いに寄り添い、状況を受け容れつつも、娘の感じている動揺。相手にはそれと気づかれないように、さりげなく言葉をかけたことだろう。

 

幾たびか額に手をあて熱計るふりして去りぬ光る廊下を

繰り返しわが手を探り触れんとす微かに残りていたる力に

ああ俺はどうすりゃいいと言いし声真白く靡く花に紛れぬ

 

残された時間の長くはないことを知りながら、病室に父を残して帰らねばならないときの思いは、「幾たびか額に手をあて熱計るふりして」の行為に現れている。そして、「光る廊下」の明るく清潔な冷たさ。

繰り返し手を探っては触れようとしてくれた父。その時の父に残っていた微かな力の感触。「ああ俺はどうすりゃいい」と言った父の声。それらはすべて、死を前にした父が作者に残してくれたものだ。

人と人とが別れる時には、力が要る。永訣とあっては、さらに。この時の、死を前にした父と娘との間に流れた時間の濃密さ。それは、かけがえのないものだったにちがいない。それは、遺された者のこころに刻まれ、その後の生きる支えともなってゆくものであるにちがいない。

幾度も幾度も思い出し、その度によみがえる。その意味では、死者は死んだのではなく、生者とともに生きている。