阪急の駅を降りればいつも冬休みのような街だと思う

土岐友浩『僕は行くよ』

 

これは、句跨がりが印象的な歌でした。

口語の歌の句跨がりについて、わたしも以前に書いたことがあり、いろんなやつがあるけれどこれはけっこうめずらしく、三句から四句にかけて「冬休み」という単語がまたがっています。
「いつも冬/休みのような」のところ。
数えたわけではないけれど、三句から四句ってなかなかないですね。
短歌のリズムだと三句終わりはしっかり休止するところだから、ここに入れると、普通はリズム的にだいぶ無理がくるわけです。
そこのところを、これは華麗にさばいているというか、そのリズム的な無理を逆手にとっていると言えると思います。
「いつも冬」まででいったん成立しつつ、それがスライドするように「冬休み」という言葉が現われる。
それだけで面白いんですけど、これは連作の一首目になっていて、その連作は下の歌などに続きます。

 

大人には言いたいことの半分も言えなくてフクロウの落書き

 

東遊園地をめざすことにする雪の気配にうつむいたまま

 

一二歳くらいの僕が寒そうにゲームボーイで遊んでいるよ

 

一首目と三首目はどうやら子供時代のことを思い出しているように見え、二首目は現在大人になり違う場所に住んでいる「僕」が、かつて住んでいた街を再訪している場面のようです。つまり「阪急の駅」を降りて歩きながら、その街で過ごした子供の頃のことを思い出している。そういう具合の連作なのかと思います。「東遊園地」などから、そこが神戸の街であることがわかる。

それで今日の歌の句跨がりの件に返ってくると、「冬」から「冬休み」へスライドするわけですが、「冬休み」が「一二歳」を含めた学生時代特有のニュアンスを持つ言葉であることに意味があります(大人でも冬休みあったりするけど)。過去にその街で過ごした「冬休み」の記憶が呼ばれてくる。
いわば、「冬」から「冬休み」へのスライドが「現在」から「過去」へのスライドに呼応している。再訪している現在の冬と、かつてそこで過ごした冬・休み。
ここのところの意味が、「いつも冬/休みのような」という通常なら無理のある句跨がりを、逆に豊かなニュアンスをもたらすものとして輝かせている。
そういう風に見えて、おお、と思いました。

連作にはほかにもいろいろありますが、このあたりで。

 

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