足もとのばけつに飼へるざりがにのごそめく聞けばさびしまれぬる

玉城徹『われら地上に』

 

年始にもやりましたが、また歌集『われら地上に』から。

バケツにざりがにを飼っていて、それがごそごそ動く音が聞こえると、さびしい思いがしたという内容になるかと思います。
これはなんというか、「さびしい」の種類があまり見ないもののような気がして、そして深い感じがして、心に残っています。
さびしさとして深いというよりも、どちらかというと浅いさびしさなんだけど、それを言う世界観は深いというような感じがします。
「さびしまれぬる」の「れ」は自発の助動詞「る」の連用形かと思われます。
くわしく言えば、「自然にさびしく思われた」という感じになるでしょうか。
もっとかみ砕くと、「なんだかさびしいような感じがした」ぐらいでもいいのかな。
けっこう受け身な、感情のほうがこっちにやって来るニュアンスかと思います。
「ごそめく」音は、生き物の立てる音なので、生きているものの持つさびしさではあるんだけど、それはバケツの中のごそごそという低い音で、犬の遠吠えのようなものとは違っている。

そして、この歌のさびしさというのは、ざりがにの音=さびしいという公式の発見みたいなものじゃなくて、そのときのシチュエーションがあってはじめて成り立つようなものだと思うんですよね。

シチュエーションというのは、たとえば一首前が、

 

九時すぎに床を出でたるわれの眼を庭の鳳仙花あかきにとどむ

 

となっているので、午前中のイメージがただよっているのとか、
「足もとの」を言うことによる、その場にいる感覚、
また、ざりがにを飼育してみるというような生活のありよう、近くにあるかもしれない川を思ったり。
こういう世界の全体的な感じと感情が不可分になっているように思えて、つまりそういうところが好きなわけですが、
わたしはこの歌によって、午前中の光からそれより薄暗い部屋の中の雰囲気まで全部つかめるような感覚になります。

「シチュエーション」と言ってしまいましたが、同じ状況がそろえば感情が発動するということではない。そのベクトルが成り立たない感じがこそが大事なもので、「さびしさ」が世界の声のように、あくまで訪れるものとされるのがいいように思います。

 

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