永井 祐


缶ビールを缶から飲むにプルトップ鼻に当たっているなと思う

相原かろ『浜竹』

 

前回は意味無意味みたいな話をしましたが、歌集『浜竹』には、ほかにも同じ主題が見出せるところがあると思って、それは章題になります。
十首以内くらいの小連作(?)がずっと続いていくという構成の歌集になるのですが、
それぞれについているタイトルが変わっていて目につきます。

 

「ずっとパン生地」

「友じゃないけどセロテープ」

「誰かがエリマキトカゲ」

 

こういう感じのタイトルがずっと並んでいる。で、これは意味のあるタイトルでも、また内容とまったく無関係なタイトルでもなく、よく見ると、連作中の歌に出てくる語を二つ並べて出来ていることがわかる。「誰かがエリマキトカゲ」だと、

 

反対のホームで誰かが振っている手の楽しさを我も通過す

 

折り紙でエリマキトカゲを大量に作りき我は作れずもはや

 

二首目と六首目にこれらの歌があって、二首目の「誰かが」と六首目の「エリマキトカゲ」がくっついて出来ていることがわかる。
それで、二つをくっつけて出来るちょっと変なフレーズはそれで面白いんですけど、
このタイトルの付け方の一番の効用はタイトルというものが持つ象徴的な意味を消せるということだと思ます。
並んでいる一首一首の歌にとってタイトル、特にその象徴性はある意味邪魔なもので、無造作につけてもたいていプレーンには働いてくれない。
この場合だと「エリマキトカゲ」だけのタイトルだと、意味を担わせたくなくてもそれっぽくなってしまう。
また、「無題」とか制作の日付だけにするとかもありますが、これはこれで、「無意味」という意味が強く出てしまい、ちゃんと無意味には働かない。
タイトルの意味性が邪魔になる、もしくは不要ということはずっとあるみたいで、昔の人は特に「折に触れて」とか「雑歌十首」とか平気でそういうタイトルをつけている。
一方では、キャプテン・アメリカの盾のようにちゃんと象徴的意味を担っていこうというタイトルの付け方もあり、これはこれで決まるとかっこよいものだと思います。
でも、「誰かがエリマキトカゲ」式の付け方は『浜竹』の意味から無意味へ向かう志向とよく合っていて、わたしはその意図がよくわかるような気がします。上手いやり方に思える。

と、読んで思ったことを書いていたら一回分が終わってしまいました。
今日の歌はその「誰かがエリマキトカゲ」から。
説明は不要でしょうか。よくこんな下句が出るなと思いました。
これも特に意味の無い、意識の変な動き方があらわれていて、素晴らしいですね。「いるな」がビールを飲む一定時間を感じさせる。