夜の風の其處にて消えぬ日比谷なる濠のみづのうへなる終り

森岡貞香『夏至』

 

不思議な歌で気になります。
「其處」は「其処」とほぼ同じで「そこ」と読むかと思います。
「濠」は「堀」とだいたい同じ意味で、「ほり」と読む。ひょっとしたら「ごう」の可能性もあるのかな。

夜の風がそこで消えた、日比谷にある堀の水の上での終りであった。
これでもだいぶ不思議ですが、「終り」とは、風の終りのことでいいかと思います。
つまり、上句を下句で言い直している歌かと思います。
風が水の上で消える。
風が消える。風の終わり。とても曖昧な、あるのかないのかよくわからないような「終り」が重ねるような言い方で言われている。

日比谷の堀というと、向こう側には皇居があります。「日比谷なる濠」がはっきり言われるこの歌では、その場所であることは動かせない部分だと思いますが、
皇居のお堀であることによって、「終り」に隠されたメッセージがあるとか、そういう歌ではなさそうな気がします。
日比谷の堀、すぐそばに大きな道路が通っていて、高いビルもたくさんあって、すごく街中です。官庁街に大きな堀が通っているあのあたりの場所の感じって、上手く言えませんが独特なものがあって、そういう場所性はこの歌に強く影響しているように感じます。
嵐のようなものでなければ、堀のほうへ吹き抜けた風はほとんど水の上で消えてしまうでしょう。少しのさざ波があったりするのかもしれない。

そして韻律が大きいところで、「日比谷なる濠のみづのうへなる終り」三句から結句まで一気に読む形かと思います。消えていく風の感じと、字足らず気味の少し不安定な韻律が通じている。ここのところが魅力的です。
「なる」は、断定・存在の助動詞「なり」の連体形かと思います。「~にある」という存在の意味。
「日比谷の濠の水の上の終り」と意味的にはほぼ一緒ですが、「~なる~の~の~なる~」と、「の」と「なる」が繰り返されながら使われる。これもたぶんわりとイレギュラーな連なり方かと思われ、この歌の独特の韻律感覚を作っている。

「みづのうへなる終り」、ここまで来ても謎といえば謎のままですが、思わせぶりにはとても見えない、場所性と韻律感と観念性が渾然一体になっているような、惹かれる歌でした。

第七歌集『夏至』の巻頭の歌です。

 

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