久我 田鶴子


轟きをしばらく宙に残しつつこの世の淵へ降りてくる水

松村 正直 『紫のひと』 短歌研究社 2019年

 

要は、音の速度と水の落下速度とのズレなんだな。「轟きをしばらく宙に残しつつ」「淵へ降りてくる」というのは。

「ある一瞬の水」を捉えて、発生する音と実体との分離を見ている。けれども、実際の滝は、絶え間なく落下しつづけ、轟きつづけているから、細かくコマ撮りでもしないことには「ある一瞬の水」というように捉えることはできない。空を見上げて、音のする辺りよりずっと先に飛行機の姿を確認するのとはわけが違う。

作者のなかで何が起こっているのか。

目で見ているのでも、耳で聞いているのでもない。知識として知っていることを前提として、頭で見たり聞いたりしているのだ。

ところが、「轟きをしばらく宙に残しつつ」「淵へ降りてくる」という言葉になったとたん、知識だったものに命が吹き込まれる。目の前の実際の滝が、知識として知っていたことに裏打ちされたように見えてくる。轟きが聞こえてくる。そこに滝が生命体のように姿を現わす。イデアが命ある詩へと転じてゆく。

さらに、「この世の淵」ともなると、ただの淵ではない。死と接している「この世の淵」というような色合いを帯びてくる。そこには、妖しく人を引き込むような力が生ずる。あぶない、あぶない。誰かと手と手を取り合って、そこへ引き込まれるのも嬉しいような幻影……。浄瑠璃の一場面ではないか。

詩へと転じたはずが、危うく死へと転ずる淵にいる。

知識だったものが実際の滝と重なったかと思うと、再び別の次元の観念の世界へ。

人間の頭のなかで起こっていることは計り知れない。

 

こわくない、こわくない、そう、はっきりと目を見開いて水は落下す

めぐりゆく一生ひとよのうちの一瞬をかがやく水か滝と呼ばれて

そこで気を失うような空白の、ましろき滝のなかほどあたり