永井 祐


汗たれて散兵線に伏す兵を朝飯前の吾は見て居り

土屋文明『山谷集』

 

 

近ごろ、半藤一利『昭和史1926-1945』(平凡ライブラリー)を読んでいるのですが、『山谷集』の歌が作られた時期(昭和5年~昭和9年)はちょうどその前半にあたります。
編年体で、年がはっきりわかるし、『昭和史』で読んだときどきの時局の影響、その雰囲気がありありと感じられる。
というか、時局というのものの存在感がとても強い時期なんだなということを読んでいて感じます。

 

新しき国興るさまをラヂオ伝ふ亡ぶるよりもあはれなるかな

 

これは満州国建国のこと。新聞・ラジオの報道が激しかったそうですが、この歌もわざわざ「ラヂオ伝ふ」としている。『昭和史』と一緒に読んでいると、このときのラジオの持つ特別なパワーみたいなものがわかる気がしてくる。

今日の歌は、代々木にあった練兵場でおそらく軍事演習みたいなものを見ている歌かと思います(前の歌からわかる)。
「散兵線」とは、兵を密集させないで横広に散開させて行う戦闘隊形のことだそうです。

この歌が面白いのはやはり、「朝飯前」ですね。
なんでそんなこと言うんだろう。
普通に朝ご飯の前ということだと思います。慣用句の楽勝みたいな意味ではない。
ほかの歌から夏であることがわかっていて、「汗たれて」だから、
すでに蒸し暑くなっている夏の朝、散らばって伏している兵がいて、それを見ている。
これだけで一つの印象があるのですが、その見ているわたしがご飯前である。わたしはこれからご飯を食べるって、不思議な情報だなと思います。要らないようにも見える。
これは、朝であることを伝えるためだけに言っているわけではないと思う。
この、見ているもの、目の前のものとちょっと解離しているような感じ、生の感覚というのが、この時期の土屋文明の歌にはよく見られて、それが興味深く感じます。

 

睦じくもの食ふ男女をとこをんなを見て食堂に靴の修繕まてり

いらいらしき心ながらに蘭虫らんちゆうを商ふ店の池をわれ見つ

 

このへんの歌もちょっと近いものを感じます。見ているものとわたしの生がナチュラルにずれている歌。

今日の歌だと、そのずれは「兵」とか「軍」というものとの距離感という風にも見えますが、くわしく見ていくと、何かもうすこし抽象度の高い、根本的なずれ、解離であるように思えます。