もしもしと言い合いておりもしもしをじっと聞きおり電波が悪い

花山周子『風とマルス』

 

電話していて、相手の声がよく聞こえない。こっちの声が聞こえているかも不安になる。
何回も、おたがいに「もしもし」と言う。
「じっと聞きおり」。かつてなく一生懸命、相手の「もしもし」を聞こうとする。
わたしはこの場面がなんとなく好きなのですが、結句があまりに端的でちょっと唖然とする。
「電波が悪い」。
もしもしと言い合うのもじっと聞くのも、一生懸命なほど一段階上から見ればおかしなことで、そういうユーモア的な視線が全体に感じられる。そして「電波が悪い」でばっさり締めるというのには何か<性格>みたいなものが露出している気がします。

 

携帯の電池切れたり途切れたる会話を頬にもぐもぐとする

 

次の歌。一首前とは違う通話の話なのか。
携帯の電源が落ちて通話が途絶え、勢い余って「会話を頬にもぐもぐとする」。これもユーモア的でたのしい感じがある。
意味はよくわかるけど、けっこう変な下句。「~を~に~とする」が字数もぴったりで、小気味よく助詞が動く過不足のない描写みたいな風をしつつ、「会話を~もぐもぐする」というのは、わりと強引な行き方だと思います。
それにしても、バッテリーのことを忘れるほど熱中して電話で会話することがわたしはあっただろうか。20代前半ぐらいのころはこんなことしてたっけ。

 

弟はわれの手相をしげしげと見しのち低く物言わんとす

 

次の歌。弟が出てきて手相を見る。言う内容より言い出し方に焦点があたり、弟のキャラクターというかわたしとの違いや関係のようなものが、くっきり感じられて面白くなっている。「物言わんとす」の構えた感じが効いている。

 

弟に預けしわれの手の平はひろびろとわが弟を見つ

 

これはさっきの歌の続きで好きな歌。自分の手の平が弟を見ているようだという。
手相を見られるというシチュエーションで「手の平」が何かいつもと違うようになる。
手の平「が」ではなく「は」なのがより自然で、そして「ひろびろと」に感触があって、わかる感じがする。手の平は目でなくて全体で「見る」のだろう。

今日はそのほうがふさわしいような気がして、歌集の中で続いている四首をぽんぽん読む形にしました。
一首抜粋で読むというのも特殊な読み方で、歌集を読むって、続いてる歌に通じている何かを読み進めながらふわっと感じるとか、そういうものな気がします。

 

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