久我 田鶴子


むなもとに天道虫がとまりたりいつも通りをぼやぼやゆけば

相原 かろ 『浜竹』 青磁社 2019年

 

道を歩いていたら、胸元に天道虫がとまった。そういうことがあったら、それだけでなにか得したような、楽しい気分になるにちがいない。

天道虫にもいろいろな種類があるようだが、よく知られているのはナナホシテントウ。つやつやの赤に七つの黒い丸というデザイン、そんな虫を創り出した自然のはからいに、今さらながら目を瞠る。

出会いは、意図されたものではない。「いつも通りをぼやぼやゆけば」、たまたま天道虫が胸元にとまってくれたという。なんという幸運か。

「いつも通り」は、いつものとおり、普段と変わらずに、ということであるとともに、「いつもの通り」、歩き慣れている道ということでもあるのだろう。

「ぼやぼやゆけば」とは、なかなか言えるものではない。「ぼやぼや」とくれば、「ぼやぼやするな」と叱られるのがオチだ。でも、ここでは「ぼやぼやゆく」。叱る人もいない。集中力散漫、何を考えるでもなく、ぼやっと歩いてゆく。

この力の抜け方。勝手に私は、この作者を〝脱力系歌人〟と呼んでいる。歌は、〝ただごと歌〟の進化形とも。

ここまでくれば、技である。力を籠めるよりも、力を抜く方がよほど難しい。力を抜いたつもりでも、どこかに緊張が残っていたりするものだ。

 

駅前に集まっているタクシーの屋根に映っていく雲もある

屋根のあるプラットホームに屋根のないところがあってそこからが雨

 

屋根の歌を二首。

何をどんなふうに見ているか。タクシーは駅前に集まっているのであり、雲の中にはそのタクシーの屋根に映っていくのもあるのである。屋根のあるプラットホームだが、先の方には屋根のないところもあって、雨の日にはそこからが雨に濡れる。

それこそ、私たちが普段「ぼやぼや」見ている(いや、見てはいない)ものが、このように表現されることで見方を一新される。

力を抜くから感じられること、見えてくるものがある。それを表現してみせる作者は、けっして「ぼやぼや」なんかしていないのだ。「ぼやぼや」しているのは、こちらであった。