永井 祐


雪掻きの音が私にかぶさりてくるように聞く朝のふとんに

花山周子『風とマルス』

 

前回と同じ歌集から。
ふとんで雪掻きの音を聞いているという歌。
そういうと平板ですけど、表現が面白くて、体感として立体的になっている。
「音が私にかぶさりて」だから、かぶさってくるのは音で、あくまで音を聞いているんだけど、「雪掻き」の性質上、雪がかぶさっているようなことも考えたりして、
聞こえ方の比喩という以上に「雪掻き」と「かぶさりてくる」につながりがあると思うんですよね。
これは縁語ということではなく、聞くということの中に、そもそもそういう立体性があるのだと思います。

雪掻きの音を聞くときに、その動作やどかされる雪の動きを思い浮かべたり、ふとんにいる頭の中に、外で行われている「雪掻き」が入り込んでくる。
この「かぶさりてくる」を見ているとそんな感じがします。

だから、「聞く」は「どこかで聞こえている」という茫洋とした感じのものではないのでしょう。頭の中に入り込んでくるように「聞く」がある。

短歌でよく「見る」とか「見える」とか「見ゆ」とか出てきますが、
あれって、視覚を伝えるという話ではなく、そこに「いる」というニュアンスも強かったりする。そして「いる」は触覚も聴覚もある総合として「いる」わけなので、
「見る」という表現の中に聞こえる風の音とかその場所の匂いみたいなものまで本当は入っているんだと思うんですよね。これは脱線ですが。

歌集には直喩の歌が多くあります。

 

雨ざらしのベニヤの板が翌日を起き上がるごと乾きたりけり

 

明け方の鳥の羽ばたきサイダーの蓋をはずしたように聞こえる

 

きみの声がさいしょっから好きだった池に浮かんだアヒルのようで

 

いずれも独特の感触がある。

説明しづらいですが、言葉の力で攻めた比喩というのでも、遊んでいるというのでもない。感覚が広がるような感じを覚えます。