沢口 芙美 『秋の一日』 現代短歌社 2019年
ひっそりとある引き込み線。本線から離れ、蜘蛛手をなしている。昼だというのに「ひっそりと」。誰の目にも触れられていないかのようだ。忘れ去られたような場所。そこに、軌条がにぶく光っている。レールと言わずに、軌条と言うところが、過去の時間に引き戻されるようである。
昼の引き込み線の情景描写であるにもかかわらず、作者の経てきた人生が重なってくる。
そして、この歌の続きに置かれた歌のいくつか。
わが胸の引き込み線をふとおもふ青春の未熟に還る一本
もう会へぬ先生なれどこの駅に降りれば懐かしその路地なども
この駅に待ち合はせし友ふたり既に亡し ああ幾年たちしか
歌を詠む姿勢を先生に糺されつ駅の人群抜けてにれがむ
引き込み線の一本は、「青春の未熟に還る一本」であった。
そこには、先生がいて、友がいて、それらの人々は歌によって繋がっているのである。
そんな青春の日から幾年が経ったと言うのか。先生にはもう会えず、友のうちの二人は既にこの世を去っている。それでは、鈍く光る昼の軌条は、過去の時間とばかりでなく、この世の向こう側とも繋がっているのではないか。
冬の夜を遺書を前にしうなだれゐき高瀬隆和、西村尚と
岸上の死の悲しみを知る人ゆゑ この世にはまだ居てほしかつた
これらの歌は、西村尚が亡くなったときの歌である。
名を呼ばれ、この世の向こうから呼び戻される人々。高瀬隆和、西村尚、そして岸上大作。
作者が「青春の未熟」と表現したとき、感じていたであろう痛み。痛みをともなうものであるゆえに、作者にとって青春は今なお色褪せることがないにちがいない。それは酷いようでありながら、やはり輝かしいものであったのだと思う。