永井 祐


よる深くふと握飯にぎりめし食ひたくなりにぎりめし食ひぬ寒がりにつつ

斎藤茂吉『赤光』

 

このページは一年間担当が続きます。
やってみるとあまりにも長い。まだ半分も来ていない。そして終わるときには今年はすでにお終いになってしまう。
考えると大変なことですが、今日も更新しないと寝ることができない。
でもわたしはブログそのものはけっこう好きで、大学生のころには友達のブログを読むのを楽しみにしていました。
ブログの文章、ワンオピニオン+日記みたいな雰囲気のものがわりと好きなわけですが、昔の歌人もけっこうブログ的な文章を残している。
斎藤茂吉に『童馬漫語』という本があるのですが、これはまさに茂吉ブログ的なものです。
評論というほどでもない短歌に関する雑感とかオピニオンが並んでいる。漫然と拾い読みするとけっこう面白い。

 

短歌を詠むとき、一気に吐き出すとか、叫ぶとか、いふ事を先輩などから聞いて、其をまた自分でも考へて見る事がある。而して詠む場合に字を消して見たり、直して見たり、幾度も幾度も為る事が、何となく不純な小細工に堕して居るのではあるまいかなどと思ふ事もある。其時には一気呵成とか天衣無縫とかいふ文字が只訳もなく尊いものの様に思へる。(「歌の推敲・改作」)

 

推敲を重ねることが「不純な小細工」なのではと感じてしまうという話。「本物」は一気に、天から降ってくるように、魂からあふれるように来るものなのではないか。
直球の問題設定で、わたしは面白く感じます。
今、推敲が小細工だと感じる人ってそれほどいないような気がするのですが、昔はロマン主義的な文学観がずっと強かったということはあるのかなと思います。
それでけっきょく結論としては、自分は『いのち』の表現に達するために必要なら推敲をどこまでも重ねるのだという、わりと普通のオピニオンに到ります。
オピニオンそのものというよりも、他人がリアルタイムで考えている感じが、ブログ的な文章のよさな気がします。少なくともわたしにとっては。

で、今日の歌。上の文章と近い時期の歌です。
ちょうど、ふと思って一気に書いたみたいな雰囲気ですけど、きっとたくさん推敲しているのでしょう。
なんとなく好きな歌です。夜中におにぎりが食べたくなって、食べた。寒がりながら。
寒がりながらがいい。寒がりながら「うまい」と思って食べる。
夜中にふとおにぎりが食べたくなる、もいい。「夜中にふとお腹がすいて~」だと、とたんにだめになる。

よく見ると、「握飯」「握めし」と二回出てきながら表記が変わっている。これはどうなんだろう、歌を見るとこれがいい気がするし、下句をのばしたかったのかなとか思いますが、別に統一してもいい気もする。ここも何度も推敲したのかもしれない。