とおきわが生命記憶のくらがりに死ねざりし父のいのちたゆたう

渡辺 良 『スモークブルー』 砂子屋書房 2021年

 

DNAに書き込まれた遺伝子情報。それに加えて、親から子へと引き継がれる「いのちの記憶」というものがあるのかもしれない。

作者は、昭和24年、横浜市生まれ。プロフィールには、町医者とある。

軍医(外科医)であった父は、戦地ニューギニアの密林で片目を失いながらも奇跡的に生き残り、戦後を町医者として生きたという。作者は、その父のあとを継いで町医者になったのである。

歌集のあとがきによれば、何冊かの戦記やエッセイを残した父だが、すべてを語ることなく亡くなったと作者は思っている。そして、「その語られない、いわば凍結された記憶はそのまま私のなかに無意識のレベルで引き継がれているということ、それは確かなことのような気がします。」と書いている。この歌の自註のような文章だ。

軍医として戦地に赴き、片目を失いながらも生き残った人。戦記やエッセイを書き残しながらも、そこに書き得ないものを抱えていた人。その人は戦地において、何を見、何を行い、何を思っていたのか。

自分の父となる以前の、父の記憶。「死ねざりし父のいのち」が自分のなかに明らかに引き継がれていると感じたとき、〈父の戦争〉が身近に迫ってきたのであろう。

 

〈玉砕〉をまぬがれし父の無言劇の闇おそれいしわが幼年期

死んだまねしておさなごをこわがらせし〈父の戦争〉は理解されざりき

語られざる〈劇〉は封印されしまま生きのびて軍医の戦後はありぬ

 

幼年期の作者には、とても理解できなかったこと。父の無言や死んだ真似がただ怖いだけだった。だが今なら〈父の戦争〉も理解できそう。自らの「生命記憶のくらがり」に「死ねざりし父のいのち」がたゆたっていると感じるほどに。

 

ニューギニアに片眼失い生き延びしを外科医なる父は殺されにけり

 

戦地で片目を失いながらも生き残った父であったが、「外科医なる父」はそこで殺されてしまったのだ。このことに気づいた時の作者の〝ああっ!〟という思いを、最後の「にけり」が表している。外科医にとって、片眼を失ったことは致命的なことであった。以後、外科医としては生きていけない。戦後を父が町医者として生きたのも、そのような事情があったからだったのだろう。

父の亡くなった後で続けられる父との対話。そこで深く頷くこともたくさんあるにちがいない。

 

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