永井 祐


ふらふらと眩暈めまひおぼえて縁側ゆころげ落ちたり冬照る庭に

若山牧水『くろ土』

 

ふたたび『くろ土』から。
「縁側ゆ」は「縁側から」ということ。
つまり、家の中で眩暈がして縁側から庭に転げ落ちたという歌。
まあそれだけなんだけど、わたしは印象に残る歌でした。
牧水の歌、とても説明がむずかしい感じがします。散文に翻訳してしまえば、まあそれだけみたいな歌が多い。
たこ焼きのたこみたいに散文にしてもほどけないネタが一個入っていると、説明が展開しやすかったりするわけですけど、それも何か本質ではないという気がするので。

この歌などは、言ったようにリアリズムの中で受け取れると思うのですが、牧水の歌は全体を神話的なオーラが包んでいるような感じがします。

 

雨雲の四方よもにかき垂りわだつみの光れる沖にわが船はをる

 

これなんかそうですよね。言ってることは雨雲があらわれていて、海が光っている。わたしの乗る船はそこにいる、というところだと思うんですけど、
なにかこう、荘厳な雰囲気がある。「四方にかき垂り」とか「わだつみ」(海・海原)という語彙によるところも大きいと思うのですが、たとえば、牧水はこの歌に関する旅行エッセイを書いています。

「熊野那智山」というもので、青空文庫にある。その中でこの歌の原作とおぼしきもの(後から改作した?)が散文と一緒に並んでいる。で、文中では、この船が通ったところが熊野の潮岬であることが書かれている。
そして一人の謎の老人がいつともなく甲板にいる牧水のそばに来て、誰にともなくこう言う。
「此処が日本の南の端でナ」
潮岬は本州最南端になるわけだけれど、昔だったらここが日本の端っこだったのか、と牧水は考えたりする。

こういうのを読むとなるほどなと思います。つまり、ここが世界の果てだった古代にトリップするような感覚で、「光れる沖」の歌は書かれているんだなと。歌にただよっている神話的なオーラってそういうことで、そう思うと世界の果てみたいな雰囲気が歌にたしかにある。

こういう分厚い象徴性の層みたいなものが、牧水の場合、かなりナチュラルに歌の言葉に受肉している感じがします。

字数がなくなってしまいましたが、今日の歌とかも、縁側から転げ落ちてるだけなんだけど、なにか神様が転げ落ちてるような感じがするんですよね。
転げ落ちるとそこは、光の庭だった、みたいな感じがするわけです。

 

見つめゐてなにか親しとおもひしかころげ落ちたり冬照る庭に

 

歌集ではこの歌が続きます。けっこうやばいというか、お酒飲んで庭にダイブした、みたいな話なのかもしれない。その区別のつかない感じがすごい。