馬場 あき子 「歌壇」2021年7月号 本阿弥書店
「桜の日・タツノオトシゴ」20首より。
こういう猫を私も見たことがあるような気がする。
しきりに前足で顔をなで回していたかと思うと、ふいとどこかに立ち去ってしまう。こちらが見ていることは先刻承知で「素知らぬかほ」なのである。猫にはそういうところがある。
「見てあれば」という表現。口語ならば、「見ていると」だろうか。
動詞に助詞の「て」の付いた形を受けた「ある」は、「窓が開けてある」「壁に掛けてある」などがある(『広辞苑』参照)が、「見てあれば」はそれとは少し違うようだ。
野良猫が顔を洗うのを見て「(わたしが)在る」。つまり、野良猫に対して、「わたし」という存在が意識化されているのだろう。ここでは、野良猫と「わたし」は対等。いや、むしろこちらが見ているのを承知しながら素知らぬ顔で立ち去ったのだから、野良猫の方が上位に立っているのか。残された人は、猫に袖にされたような格好だ。
猫と人との無言の駆け引きがそこにはあったようだ。
すべなきことさまざまにある世の中にわが居間に来て死にたる守宮
お笑ひが「もうええわ」と終るやうには捗らぬものを今日もかなしむ
いずれもコロナ禍の現在である。野良猫にしても、守宮にしても、また次に登場するタツノオトシゴにしても、そのコロナ禍の現在を生き死にしているのである。
世のことはどこ吹く風としやれのめし水槽にゐるタツノオトシゴ
水槽に近衛兵のやうに立つてゐるタツノオトシゴ笑つてゐるか
タツノオトシゴ飼つてあさゆふ会ふこともいいかノンポリのやうなその貌
水槽の中のタツノオトシゴは、「コロナ禍、なんぞ?」と言うかのような余裕の風情だ。それを作者は好もしく眺めているのだろう。
面白いのは、「近衛兵のやうに」「ノンポリのやうな」という比喩。近衛兵は、天皇の護衛兵。ノンポリは、「non political」の略で、政治や学生運動に関心を示さない人。平成生まれでは分からないかもしれない。
この比喩によって、戦争であったり、学生運動が盛んな時代であったり、作者がこれまでに出会ってきたものが引き寄せられている。昭和の匂いが漂ってくる。作者がタツノオトシゴを飼ってみるのもいいかと思うのは、余裕の風情に加えて、過去を懐かしく思い起こさせるものだからでもあるのだろう。