門脇 篤史 『微風域』 現代短歌社 2019年
飲み終わったペットボトルからラベルを剝がしながら「無名の我」ということを静かに思う夜。
ラベルを剝かれて、ただの透明な容器になったペットボトルは、所属や肩書きなど余計なものを取り去った後の「ただのヒト」である「我」を思わせる。何者でも無い、ということの清々しさ。
でも、「無名の我」の向こうに「有名な我」がちょっとでも意識されているとしたら、「無名の我」であることは残念なことであるにちがいない。「しづかに思ふ」が、「無名の我」である自分を嚙みしめているのを思わせる。
はたして作者がどちらなのかは不明。内面については深入りしないし、読者にも深入りされたくない(?)。
夜だ。寝る。やがて、朝が来る。顔を洗う。朝食を食べる。夜のうちにラベルを剝がされたペットボトルは、資源ゴミとして出されるだろう。そして、いつものように仕事に出かける。どんなに疲れていようと繰り返される日常。
美しき夢の終はりに朝はきて顔を洗へばとれさうなかほ
納豆の薄きフィルムをはがしをりほそき粘糸を朝にさらして
天体に触れたるやうなしづけさでボイルドエッグを剝く朝のあり
単調に繰り返されているように見える生活の具体にも、朝にはやはり朝の顔がある。
納豆のフィルムをはがしながら細い粘糸を「朝にさらす」と見ているのも、ゆで卵の殻を剝きながら天体に触れたような感覚になるのも、ささやかではあるがそこに詩があり、それが喜びにつながる。「無名の我」であろうが、今日を生きている「わたし」がそこにいる。
それにしても、「剝く」「はがす」が多いような気がする。殻や飾り的なものを取っ払ったところにあるものに素手で触れたいといった思いが作者にはあるのかもしれない。多用される言葉に、思いがけなく作者の思いが滲んだりする。