冬ばれのひかりの中をひとり行くときに甲冑は鳴りひびきたり

玉城徹『樛木』

 

 

これは、けっこう有名な歌だそうなんですけど、
わたしははじめ読んだとき、よくわかりませんでした。
「甲冑(かっちゅう)」が唐突で、どう効いてるのか不明だった。

あるときからわかるようになった。
甲冑が冬の白い光をはじいたりしながら、かちゃかちゃいって、
澄んだ空気にその音が響いて、歩いていく感じというのがはっきりわかるようになった。

「甲冑」は日本のじゃなくて西洋のととるのがいいみたいです。
なんというのかな、この「甲冑」はイマジナリーなものとして考えていいと思うんですけど、「冬ばれのひかり」から自然に生まれてくるようにあらわれるものだと思うんですよね。
そうすると、西洋のやつのがそれっぽい。
日本の戦国大名みたいな赤く塗って額に金のエンブレムがあるようなやつではない。あれは冬の光っぽくないですよね。色に赤はないし。

「冬ばれのひかり」はまた感覚的ですけど、年は明けてる感じがします。
わたしの中だと1月。なぜか。「ひとり行く」というときに道に人があまりいない感じがするから。歳晩の人出が多い感じはしない。
それで、「甲冑」の音をフィーチャーするのがいいですよね。
歩いてかちゃかちゃ音がする、あの音。甲冑は自分がつけているイメージかと思いますが、けっこうリアルな音を鳴らして歩いていく。それが面白い。甲冑を着てわりと気張って歩く姿を自己戯画化するニュアンスもあるみたいです。

 

夕ぐれといふはあたかもおびただしき帽子空中を漂ふごとし

 

これも同じ歌集の有名な歌。「甲冑」の歌、はじめわからなかったといいましたが、この歌がなんとなくヒントになりました。
「夕ぐれといふは」は「夕暮れというものは」ということだと思いますが、下句のイマジナリーな「帽子」はそこから引き出されてあらわれてくる。
甲冑の歌でも同じで、ある意味「冬ばれのひかりというものは」という形の想像力から「甲冑」があらわれてくるんだと思います。
「夕ぐれ」とか「冬ばれのひかり」が先にあって、その潜在力を引き出して形にするような想像力なんだと思うんですよね。
これは、短歌でよく言われる「幻視」などと、根本的に違うタイプの想像力なのかと思います。
あるいは、シュルレアリスム系の「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会い」とか、「異化」と呼ばれるようなものとも違う感じがします。

いまだにこの「甲冑」みたいな想像力のものは稀な気がします。新鮮な感じをうける。同じような感触のものがあまり思い浮かばないです。

 

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