鉛筆がひろげし紙にぐっすりと眠るほとりを立ちて来にけり

岡部桂一郎『一点鐘』

 

 

1915年生れの岡部桂一郎さんの歌。
歌集は2002年刊の『一点鐘』。わたしはちゃんと読んでいなかったのですが、
この歌集面白いです。不思議な歌が多い。
今日の歌は巻頭の歌。

たぶん机の上に、紙と鉛筆がある。書きものとか、何かの作業の途中になっているものでしょうか。
紙の上に鉛筆があるのかな、
広がった紙の上に鉛筆が「ぐっすりと」眠っている。
ここのところさっそく、おだやかで変な感触がある気がします。
紙が布団で鉛筆が人っていう風に見立ていると考えてもいいし、そうすると難しくはないですが。
なにかこう、もっとゆるくというか、当たり前みたいに鉛筆がぐっすり眠っていると書いてある。「ぐっすり」感の理由や説明も特にない。とにかくぐっすり寝ている。

その「ほとりを立ちて来にけり」。
「ほとり」という言い方もゆるやかな感じがしますが、「立ちて来にけり」がわかるようでわからない。「来にけり」はどこに?っていう感じもするし、
「立ちて」? 立って来た? 「ほとりを立ちて」だと、机を離れたという風にもとれるかと思いますが、感触的にほとりをうろついてるような感じもする。
このように、歌はなんとなくふにゃふにゃしている。

上句を改めて見てみても、「見立て」的な気負いがない感じがします。

主体の輪郭がゆるい。世界と対峙するようなくっきりとした主体の感覚がなくて、位置関係もクリアにはならず、対象とくっついたり離れたりするような感じがします。

一首だけだとあれですけど、集を読んでいるとこの感じのユニークさとラディカルさがだんだんわかってくる。

 

東名高速富士インターの渋滞を伝える睦月夕陽火だるま

 

これ、「伝える」は連体形に思えるのですが、渋滞を伝えるのは「睦月」なのか。さらに続き方が「睦月夕陽火だるま」って変ですごくないですか。

 

不機嫌な回転鋸の音のして二つの片にわかれたる板

 

電動鋸で板を半分に。「不機嫌な」もさることながら、この場面を「板」の体言止めにするのが面白いなと思います。「板は二つの片にわかれたり」だと、ただごと的になりますが、「わかれたる板」とされると不思議さが残る。何のためにある歌なのかわからなくなるような感じがします。

 

 

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