大下 一真 『漆桶』 現代短歌社 2021年
土の中から出てきて成虫になって、数日の命を懸命に鳴く蟬。そういう一途さもある。
「さもあれよ」は、そういう生き方を認めつつ、一方で蜘蛛のような生き方にも目をやっているのである。
蜘蛛は巣に拠り、じっと音無しの構え。巣にかかる獲物を待って、自らの存在感を消している。獲物を捕らえられるか否かがそのまま己の生存にかかわるのだから、巣に身を潜めている蜘蛛にはただならぬ殺気が漂っているにちがいない。
今まで蜘蛛の巣や、そこにじっとしている蜘蛛を見たことはあっても、蜘蛛の殺気まで感じたことはなかった。そこまで感じ取れてしまう作者に、ちょっと唸ってしまった。心の寄せ方が半端でない。生きていくのが大変なのは人間ばかりではない。蜘蛛だって大変だ、まさに命懸けである。
先天性巣作り不器用症候群などあらぬらし蜘蛛の世界に
それとは別に、蜘蛛の巣作りの見事さには目をみはる。ほんとうにどの蜘蛛も器用に巣を作るものだ。
「先天性巣作り不器用症候群などあらぬらし」と言うのは、人間だったらこうはいかない、不器用で巣なんて作れなさそうなのもいるよなという思いがあるからだろう。さらには、ちょっとでも他の人と変わったところがあると「なんとか症候群」とか名前をつけたがる人間に対する批評の目もそこには感じられる。そんなことを考えると、蜘蛛と比べても人間はずいぶんと不自由なところで、もがきながら生きているのかもしれない。
かなかなが鶯が鳴き暁を起き出で人はくしゃみ二つす
或いはもっとも苦しみ多き生物としてヒトはあり服着て靴履き
窮屈に考え過ぎておらぬかという声がしてやがて雨音
小さなる草は小さき花咲かせ知足が知恵とうそぶきもせず
怒りごとひとつ抱える僧形の頭を撫でて吹く若葉風
一真和尚にして、ヒトは「或いはもっとも苦しみ多き生物」と思われるという。ヒトは不器用に自然に反した生き方をして、苦しく窮屈な思いもしている。さればこそ、雨音や小さな草や若葉風にさえ、諭されたり宥められたりしながら生きていくのであるな。