高野公彦 『水の自画像』 短歌研究社 2021年
※「氷」に「ひ」、「金碗」に「かなまり」のルビ。
暑い日ともなれば、冷たいものを口にしたくなる。
「削り氷」は、今なら〈かき氷〉。「甘づら」は、今のアマチャヅルに当たるらしい蔓草からとった甘味料。「金碗」は、金属製の器。銀か錫でできているのだろうか。
削った氷にシロップをかけて、金物の器に入れたのをいただく。キンキンに冷えた器から、品の良い甘さの氷をサクサクとすくって食べるのは格別だろう。おそらくは、夏の暑い日の作者の夢想。
この夢想、実は『枕草子』から来ている。
「あてなるもの(上品なもの)」の中に、「削り氷にあまづら入れて、あたらしき金碗に入れたる。」とあり、それをほぼそのまま一首に入れているのである。(※岩波書店の古典文学大系では、「碗」は金偏になっているが、ここに反映できないので「碗」としてある。)
清少納言が「あてなるもの」として挙げてみせたものを夢想しつつ、遥かな時を超えて、その言葉としての美しさを味わい、そのように表現した人をも現代によみがえらせている。削り氷に冷やされた風がさっと吹き抜け、王朝の女人の姿やその背景が現実のもののように見える一瞬。「白昼夢」としか言いようがない。
古い言葉でもそれを使うことによって生きかえらせることができる。使うことによって保存する。これは、作者が繰り返し言っていることでもある。
薄ら氷をウスラヒと読む正しさの狭さと古さ、我のものなる
この歌には、「ウスライか、ウスラヒか。」という詞書がある。
「薄ら氷」をウスライと読む人が多くなっている、そういう言葉の現状を憂えているのであろう。辞書でも「薄ら氷」を「うすらひ」としながら、「うすらい」をも許容している。でも、正しくはウスラヒなんだよ、確かに、そう言うのは狭くて古いかもしれないけれど、わたしは正しさの方をとるよ、という作者の声が聞こえるようだ。
言葉のプロ、それも、長い歴史をもつ短歌に関わる者であればこその姿勢。
現在の、何でもありの言葉の状況に対して、「正しさ」をきちんと言える人は数少ない。だからこそ余計に作者は見過ごすことができないのだろう。そして、言葉を大切にするということは、それを使う人を大切にするということでもある。
交霊のごとく視線を交はしたりマスクの我とマスクの彼と