土屋文明『自流泉』
昭和二十二年の歌。連作は「くさむらの賦」というもので、その名の通り草むらを詠った歌が並んでいます。
いとなみは各々にして草村に生きたるもの蟻毛虫くも二三種類
これが一首目。
どちらかというと今日の歌よりこちらのほうが土屋文明っぽい。
「生きたるもの蟻毛虫くも二三種類」って変な下句だと思いませんか。
でも、よく読むとこのフォルムが面白く感じられてくる。
三句までは普通のリズムでいくけれど、七七はどこまでが四句でどこからが結句なのかよくわからず、まるごと捉えられながら字余り気味に流れていく。これは句跨がりというのとも違っている。
「蟻毛虫くも二三種類」は名詞をそのまま並べつつ、即物的で正確なようにも主観的でアバウトなようにも見える。
リズムが咀嚼されてその人なりのものになって、そのあり方がそのまま思想性であり、作家性であるようなものになっている。
幾千の木草むらがる中にして吾が知る四五種類にわが世界かかはる
このように「くさむら」はかなりただの草むらで、手入れされた庭のようなものとは違っている。昆虫とか植物がうたわれる連作の最後のほうに今日の歌は出てきます。
今日の歌をピックした理由は「短かなる時」が気になったから。
歌の中で曖昧で、多義的な部分だと思います。
「短い時間」ということになると思いますが、どの時間が短いのか。
わたしはたぶん、しゃがんでいる時間、しゃがんだりして草の世界と関わっている時間が短いということ、
もっと言うと、草の時間と吾の時間が違うということかと思いました。
しゃがむ、ということが草の世界や時間に入り込んでいくような意味合いを帯びていて、その時間は短い。
上句から、草の時間は長く、吾の時間は短いという風にも受け取れるかと思いますが、それだとちょっと、訓話みたいになる気がします。
連作を踏まえてわたしなりに解しましたけど、やはりちょっと謎めいたフレーズで、一首だけ抜き出すと大きな病気をしていて先が長くないみたいにもとれてしまう気がします。
謎フレーズに惹かれる。