まゆしろき老人おいびとをりて歩きけりひとよのことを終るがごとく

斎藤茂吉『石泉』

 

今回は、小池光『茂吉を読む』(五柳書院)の文章を紹介しつつやろうと思います。
ときどきこういうのもいいかなと。

今日の歌が入っている『石泉』は九番目の歌集で昭和6年ごろの作品。
熱海からごく近い離島の初島に旅行したときの17首連作「初島」の真ん中ぐらいに出てくる歌です。

この歌、どうでしょうか。名高い名歌ではないし、島にいる老人を興味を持ってながめているという感じの歌かと思いますが。
「ひとよ」は「一生」。その老人は歩いていた、一生(いっしょう)のことを終えるかのように。
小池さんの読解は面白く、特に上句に注目します。

 

この歌は上句の表現が変わっている。島の老人が歩いているところを見た。それならば「眉しろき老人ひとり歩きをり」とでもするのが普通である。ところが「老人をりて歩きけり」という。まず老人が居る、そこに存在する。それが(見ているうちに)やおら歩き出し、歩き終わる。そんなふうに老人の動作が二段に感じられるところがおもしろい。おもしろいし、不思議な印象を与える。

 

この上句、老人が歩いてるなあっていうだけで流しそうなんですけど、「をりて歩きけり」という表現に独特のものを見出す。
「老人がいて、歩いた(歩きおわった)」という二段階性を感じさせる記述から、さらに下句を踏まえて、
機械仕掛けの人形が歩き終わってガクリとばねが尽きてしまったような、奇妙なイメージが立つと読み進めます。
そしてふたたび「老人をりて歩きけり」という表現にもどって、次のように考察がすすむ。

 

その老人を見、観察する側つまり作者の時間的現在はどこにあるか。「眉しろき老人をりて」が時間aに立っての記述である。「歩きけり」は時間bにズレる。茂吉の歌を読んでゆくとしばしばこのような時間点を複数取る表現に出合う。主体が分割されて複数化するような印象を生む。これはひじょうに茂吉に特徴的な文体で、他ではまず見ない。われわれは九割九分が一元的時間軸上の一点から対象を見、記述するのであり、その結果、たとえば、

眉しろき老人ひとり歩みをりひとよのことを終るがごとく

というような理屈正しく、そして平凡な作を得ることになるのである。
茂吉はこういう多元化する自己をおそらく無意識のうちに迷わず短歌形式のうえに重ねることができた。

 

うーん、「老人をりて歩きけり」からここまで進むのすごくないですか。
でも、斎藤茂吉の歌の感触を知っている者からすると、これは非常に本質的で、説得的な議論になっていると思います。
しかも主体が複数化・多元化するわけなので、近代の「我」って濃ゆくて疑いがなくてちょっと嫌ですよね、みたいなベタな議論と一線を画している。
そのうえで茂吉のヤバさも短歌の読みどころもよくわかって示唆に富む。

そう思って紹介してみました。

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