大久保春乃 『まばたきのあわい』 北冬舎 2021年
「身をひとつ」と始まり、どこへ連れていかれるのかと思ったら、海への道案内だった。
二句目、「左へゆるい」と読んでいくと、ゆるい坂道であって、三句目の方にかかるのだった。四句目の「めぐらせゆけば」まで繋がっていく、ゆるい言葉運びが心地良い。
「身をひとつ……めぐらせゆけば」というのも、わたしでもあなたでもなく、身体が運ばれていかれる感じで、なんとも不思議な感覚だ。
そして、最後にパッと開ける風景、「そこが海です」。
左へ、ゆるい坂道の先は、海なんだ。そこで読者が見せられる海は、それぞれのお馴染みの海なのではないだろうか。知ってる、知ってる、あの海ね、という成り行き。
それはあえかないらえであってひと筋の煙の内に瞬のまたたき
「あえかな」は、弱々しくたよりない美しさの様子。雅な言葉だ。「いらえ」は「応え」。返事のこと。これも雅な言葉だ。
ひと筋の煙が立ちのぼり、その煙が一瞬またたくように揺らぐ。一首の頭に置かれた「それは」が指しているものである。それ=あえかないらえ=ひと筋の煙の内に瞬のまたたき。
墓か仏前に供えられた線香の煙のように思われる。こちらからの呼びかけに応えるように、煙が瞬のまたたきを見せてくれたのだろう。
「それは」と静かに始まった歌は、雅な雰囲気のうちに死者との交信がなされたことを伝える。
不思議な出来事ではあるが、似たような体験をしたことがあるかもしれない。読者にそんなふうに思わせる歌である。
だれもが通る道ですからと ひともとの夕日を透かす葦になるまで
「だれもが通る道ですから」という声。誰が言ったのかと辺りを見回してみると、それは夕日を透かしている一本の葦であった。
あるいは、〈考える葦〉と言われる人間である。「だれもが通る道ですから」は、西方からの光のうちに晩年を迎えるということを言っているのかもしれない。
あるいは、……。
読みをひとつに絞ることはできないが、人生を思わせつつ、美しいイメージがひろがり、読者を遊ばせてくれる。