永井 祐


自動車がずずんと過ぎしあとの路地ろぢ犬も雀も素足に歩む

高野公彦『雨月』

 

 

前回は宮柊二の歌だったので、今回は弟子の高野公彦の歌。「弟子」でいいのだろうか。歌の中に「師」として出てくるし、間違いではないと思うのですが、短歌の中の師弟は関係がそれぞれで、くわしく調べないと内実はわからない。
また、通った学校の先生をさらっと「師」と言ったりするけれど、「弟子」と言ってしまうと仏陀の弟子とか、剣豪の弟子みたいな雰囲気がただよってくるので、ちょっと難しいなと思います。

ともかく今日の歌。四番目の歌集『雨月』から。1985年の歌です。

なにか感触がぱっとくる歌ですね。

普段あまり車が通らない道を車が過ぎる。
「ずずん」から、わたしはなんとなく、土っぽい道ではない、あまり弾力に富まないような道を想像します。
道全体がちょっと振動するような影響があたりにある。
そのあとを「犬も雀も」ぺたぺた歩く。
「素足」はもちろん言わなくても素足で、だからここは目立ってくる。

下句は生きもののやわらかさみたいなものが、感覚的にやってくるようになっている。
「素足」は人間の足を想像させると思います。
生きものと人が同じレベルで持っているようなやわらかさとかエロティックなもの、そういうものがつかまえられているのかなと思う。

自動車と生きものの対比というとシンプルですが、
ズン、のあとに歩く動物たちは、とてもすべすべとした感じがします。
いわゆるただごと歌のようななりをした歌ですが、強い異化効果が働いている。

 

湯上がりの汗みづくなるわが前に夜の影もちて白き剝梨むきなし

 

虫の音のきこゆる卓に梨ひとつ鉄球のごと濃き影置けり

 

同じ歌集から梨の歌を二首。

一首目は湯上がりの人体と呼応するようなみずみずとしたエロティックな「剝梨」。
二首目は剝いてないんでしょうね。虫の声が聞こえるところに「鉄球」の比喩がどんとやってきて、重くて実在感がある梨。

いずれも歌のキメになる部分が生理・感覚的な気がして、高野さんの歌はそういうルートを豊かに持っている感じがします。