知らぬことまだまだありさうコンビニのクリームパンが好きな連れ合ひ

外塚 喬 『鳴禽』 本阿弥書店 2021年

 

長年、連れ添ってきた夫婦といっても、お互いに知らないことはあるものだ。

コンビニのクリームパンが好きだなんて。妻にそんな好みがあったのを知った夫の驚き。いやいや、知らないことはこれだけではなく、まだまだありそうだと妻を見る目がちょっと変わる。

この一首では、「妻」ではなく、「連れ合ひ」。

夫婦二人ひと組、いつも共に、同じ方向を見ている同志のような近しい響きがある。そういう存在にして、まだまだ知らないことがあるというのだから、びっくりしているのである。だが、このびっくりは、どこか嬉しげ。驚かされるのを喜んでいるようだ。

 

竹ばうきなくてはならぬ連れ合ひのつちおもての光あつめる

 

庭を掃くときは、いつも竹箒をつかう連れ合い。竹箒がなくてはならない連れ合いだ。その連れ合いが竹箒をつかっているさまは、「つちおもての光あつめる」といった具合。実に美しい。

それをまた、ほうと眺めている夫である。

 

連れ合ひでなければ機嫌悪ければ姥捨て山に捨てさうになる

 

これはまた穏やかでない。機嫌が悪いと姥捨て山に捨てそうになると言う。でも、連れ合いだから捨てはしないのである。こんなことを歌にしてしまえるのも、相手が連れ合いだから。ちょっとやそっとのことでは崩れない信頼関係ができている。

「連れ合ひでなければ機嫌悪ければ」という、「~ば」の繰り返しは、並列しているわけではない。こちらが機嫌の悪いときには、この人が連れ合いでなければ姥捨て山に捨てそうになると言うところを、「連れ合ひでなければ」が先にくることで、捻れたような可笑しみが生じている。ちょっと言い難いことを言わせてもらったという感じだろうか。信頼関係があるとは言っても、それなりの心遣いは必要だ。だからこそ続く信頼関係でもある。

 

朝朝に甕のメダカに餌をやり生き延びてゐるのは妻かも知れず

嘘をつかないメダカが好きといふ人の忘れずに餌をやる雨の日も

 

「連れ合ひ」ではなく、「妻」「人」と表現した歌も挙げてみた。

相手を見る眼差しのやさしさは同じだが、「連れ合ひ」と言うときには、相手に対して素直に安らいでいる感じがする。距離がうんと近づいて、「ベターハーフ」と言うのに等しいような。

 

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