永井 祐


秋の日に光りかがやくすすきの穂ここの高屋にのぼりて見れば

良寛『良寛和歌集』

 

これは江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、良寛の歌です。
唐突ですが、これは斎藤茂吉が書いている「良寛和歌集私抄」からの孫引きになります(すみません)。
わたしは昔の歌に興味があり、また、昔の人がさらに昔の人の歌をどんな風に読んでいたのかにも興味があるので、たまにこういう文章をぱらぱら読みます。

 

歌作ることを割合に好む予は、古人の作を読むことも割合に好んでゐる。古人の作を読むのは、特別な研究目的があつて読むのではなく、読んでゐるといい気持になるからである。

 

斎藤茂吉は序文でこんなこと書いています。いい感じでしょ。

良寛、わたしは名前しか知らないぐらいだったけど、もちろん僧として有名な人で、生涯自分の寺を持たずに庶民とともに歩み、特に子供好きだったそうです。エピソードは山のようにありますけど、具体的な業績はけっこう曖昧で、なにか伝説の聖人みたいにして名前が伝えられているようです。

歌にいきましょう。
けっこうわかりやすいですよね。「高屋」はおそらく「たかや」と読んで。高く構えた家のこと。だから、高い家の屋根にのぼって見てみると、すすきの穂たちが光り輝いているなあという感じの歌かと思います。

「秋の日に光かがやくすすきの穂」について茂吉は次のように言う。

 

上の句の言ひ方が如何にも鮮かで印象的で現在の我等の歌に見るやうな言ひ方であるのも珍とすべきである。

 

わかりやすい印象があると言いましたけど、茂吉から見ても上句の表現はクリアで今風であるみたいです。「言ひ方」としては今見てもぱっとわかる。「珍」とは古歌にはめずらしいということだと思います。

でも一番大きい評価ポイントはここではない。

 

此の歌はなかなか佳い歌である。どういう訳かと前から考へて居た。第三句で一寸切れる句法である。而して第三句の終が名詞であつて、終音が『ほ』である。それから第三句までは如何にも単純で直接で印象的表現法である。そして第三句で一寸切れたものである。それから第四句第五句でどんな大袈裟な事を言ふかと思へば単に、ここの高屋にのぼりて見れば、といふのである。この辻褄の合はない様な子供らしい言い振りが此の歌を偉大ならしめた所以である。特に一首に就いて、

○○○○すすきの穂○○○○のぼりて見れば

この具合がなかなか興味のある處である。

 

これはなにかわかるようなわからないような・・
いちおうかみ砕いてみると、
上句と下句はトーンが違い、三句体言止めで切れて下句が倒置のようにかかる形によって、それが生きている。
下句は上句の鮮やかさから一転、子供のような言い方であり、ここのところがよい。
倒置構造は、直すと「のぼって見てみたら~すすきの穂」になっていて、くっきりした倒置ではない。ここに味がある。特に三句終わりが「ほ」というのがいい。
こんな感じでしょうか。

いずれにしろ、上句と下句で一種の転調を見て取っているのかと思います。「三句で一寸切れる」を何回も言ってるところからして、茂吉はこの上句と下句のあいだに今でいう「一字空け」みたいなものを読み取っていると考えてみても面白いかもしれない。

長くなったので一回終ります。