永井 祐


七階に空ゆくがんのこゑきこえこころしづまる吾が生あはれ

宮柊二『日本挽歌』

 

せっかくなのでもう少し『日本挽歌』からやってみようと思います。
宮柊二について、くわしくはぐぐってもわかることなので、特に細かい紹介はしませんが、昭和14年から昭和18年まで四年間、兵士として中国大陸に行っている人です。この歌集は帰還して7年、終戦から5年くらいの歌が入っています。

とりあえず今日の歌にいきましょう。
雁の声をきく歌、たぶん古来からたくさんあると思いますが、
これの場合は展開が変わっていて、雁の声を聞いてしずまる自分の心はあわれだなあと思っている歌かと思います。
「あはれ」は多義的ですが、しみじみとした情緒という感じじゃないと思う。
多分に「哀れ」が入っている気がして、雁の声を聞いて静まる自分の心の、小ささとかどうしようもなさみたいなことを感じます。

世の中の激流に押し流されるみたいに生きていて、こういうところで心が静まるんだなあ、という感じでしょうか。
けっこう短歌っぽいところの歌に見えるんですけど、この歌の読みどころはむしろ、「こころしづまりにけり」とかで収められないところなのかと思います。
また機会があったら紹介しますが、宮柊二は意外と文語の助動詞少ない説というのがありまして、「かな」とか「かも」とかはあまりないんですよね。「けり」はあるけどかなり少ない。「つ」「り」などミニマムなものが多く、助動詞がつかない場合も多い。

何が言いたいかというと、この歌の場合だと、雁の声を聞いて心がしづまったとするのがたぶん王道で、その場合「しづまりにけり」などとしてばしっとしめるのがいいのかと思います。
でも、そういう気持ちのよい行き方ができず、途中で自分についてぐっと考えてしまって「吾が生あはれ」が出てくる。これは蛇足でかっこ悪いところでもありつつ歌の破れ目であり、個性であり、現代性でもあるんだろうと思います。表現としての意味はむしろそっちに出てくる。こういうワン、ツーポイントの過剰さがある歌が多い。

「七階」もいい気がします。野原で聞いているおもむきとちがってくる。

もう一首だけ。

 

雨の朝帰りきたりて額肩腕ぬかかたうで濡れしをひとり拭きてをりたり

 

これも地味に心に残りました。三句「額肩腕」にインパクトがあって目にとまる。
だいぶ濡れてる。一つ一つ拭いていくんだと思います。