小島ゆかり 『雪麻呂』 短歌研究社 2021年
※「尿」に「ゆまり」のルビ
犬を連れての散歩中の一齣だろうか。
「尿する犬見てあれば」と条件が示され、「人生の途中の時間あたたかくなる」と続き、歌の構造としては平明な表現である。
だが、まず「尿」。小便のことを言うのに、この表現が選ばれている。
「ゆまり」は、「湯放」。「まり」は、排泄する意の動詞「まる」の連用形から来ている。『大辞林』は、『古事記』からの用例を挙げている。それほど古くからある言葉だ。「ゆまり」と言うと、生きている身体から放たれた温かい水という感じで、排泄物であるにもかかわらず汚いという感じはあまりしない。命そのものの温もりが「ゆまり」という言葉のなかにもあるようだ。
同じことを言うのに、「尿」では生理学的、「おしっこ」では幼児語、「しと」では「ゆまり」にある温かな感じはない。ここは、どうしても「ゆまり」である。
次に、「見てあれば」。見ていると、と言うのとは違う。見て、わたしが在る(存在している)と言うのだ。犬に対する「わたし」、その存在がつよく意識されている。
それがあるから、「人生の途中の時間あたたかくなる」となる。
放尿する犬を見て、なにか心がほっとした、身内があたたまるように感じたとは言っても、そこに「人生の途中の時間」まではなかなか出てこないだろう。「わたし」の人生、今がその途中であることが俯瞰的に意識される。そして、人生の時間に、尿をする犬を見ているひとときが温かいものとして組み込まれる。
それは取るに足りないような出来事で、ほんのひとときのことにすぎないが、ふっと救いのように「わたし」にもたらされたものだ。そう感じたことは、それだけ苛酷な日常のなかに身を置いているということでもあろう。
遠方といふはるかなる場所があり枯芝色の犬とあゆめば
この歌では倒置法になっているが、前の歌と構造は同じだ。枯れ芝のような色合いの犬と歩んでいると、遠方というはるかなる場所がある、と。遠方、はるかなる場所があると思わせてくれる犬との歩みに安らいでいるのである。
「枯芝色」という色の表現がまた、遥か彼方に広がる草原を思わせもする。今いる此処とは違う遠方、はるかなる場所があるということが救いのように思われることもある。