草むらをひとり去るとき人型にくぼめる草の起ち返る音

宮柊二『日本挽歌』

 

『日本挽歌』は宮柊二の第五歌集。昭和25年からの歌が入っています。
家にある本をあさっていて、ふと目について読み返すと、感じるところのある歌が多かった。

 

こころどに入り込むばかり星れり鼻口もとに寒さ凍みつつ

 

(「凍みつつ」は「しみつつ」だと思います。)
凍えながら星を見ている歌。上句の表現もさることながら、こんな下句を今の人はつけない気がします。特に「鼻口もと」とか。ほんとに寒そうです。そしてしみいるように寒い分、星の光への感動がすごくなっている。うおおおお、と思いながら、心に入り込んでくるような星の光を見つめている。そういう感じがします。

昔、蓮實重彦が、自分は極寒のロシアで何時間も外に並んで待って映画みてたんだぞと、マウントを取るかのように書いていたのを目にした記憶があり、「なにそれ」とは思ったのですが、そういう種類の迫力を宮柊二の歌に感じるような気がします。

 

人をいためぬよき子になれと中の子の広き額を撫でてをりたり

 

これなど、ちょっと怖いですよね。「中の子」は子供が三人いてその真ん中の子という意味だと思います。
人を傷つけないようないい子になりなさい、と額をなでている。まったく普通なようだけど、「人を傷める」ことの意味をはっきりと知っている感じが、ちょっと怖いような感じがします。わたしは子供目線のほうに同一化し、一方的に撫でられながら、ああお父さんは深く傷ついているんだと、わかってしまうような感じがします。

それで今日の歌。
連作中の歌です。草むらに入っていって、そこでしばらく横になる。空を見たり足の爪を切ったりする。そして去っていくときの歌。
「草の起(た)ち返る音」がとても印象的ですよね。そんな音聞こえるのかな。
これもやっぱり、心で聞く音という感じがとてもします。
深い領域に入ると、そういう音が聞こえる。浅い人やぬるい人には聞こえない、というと言い過ぎな気がしますが、他の歌と一緒に読んでいると、同種の迫力がこの歌にもあり、混沌とした心から出てくる表現なんだろうなと思います。

 

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