かくも長き戦後を写真の廃墟にて立ちつづけゐる裸足の男の子

高尾文子 『あめつちの哀歌』 本阿弥書店 2020年

※「男」に「を」とルビ

 

「元米国従軍カメラマン、ジョー・オダネル氏撮影『焼き場に立つ少年』によせて」という詞書のつけられた、「投下後の地平にただ立つ少年のおんぶ紐死児をしつかりと結ぶ」に続く歌。

「投下後」とは、長崎の原爆投下後のことである。

写真の中の少年は、死んだ弟をおぶって、口を真一文字に結び、気をつけの姿勢で立ち、まっすぐ前を見ている。

このあと、焼き場で弟が焼かれるのを見守り、くるっと回れ右をすると、一度も振り返ることなく立ち去ったという。その後、この少年がどんな人生を送ったのかは不明だが、この時までに少年が負ったものや、この時から後をどのように子どもの力で生きていったのかを思わずにはいられない。

一首は、写真の少年に焦点をしぼり、作者の感情は抑制されている。だがそれでも、「かくも長き」や「廃墟にて立ちつづけゐる」といった表現には、抑えきれないものが滲む。

作者は、昭和13年生まれ。昭和20年、撮影されたこの少年と同じ年頃だったことを思うと、戦後生まれの私などとは写真の見方がかなり違うのではないかと想像する。あるいは、この少年は〈わたし〉だ、〈わたし〉だったかもしれない、と強く感じられたかもしれない。

「ガス室に消えし幼女の遺す靴 くつひも結ぶちさき手も視ゆ」といった、アウシュビッツで見たものをうたった歌にも、共通する作者の眼差しを感じる。

そして、その先にある祈り。

 

ゆく秋の世界を神を視るやうにぬれぬれと瞳ひらくみどりご

たぶん小声にかしこきことを言つてゐる藍色微塵けさのつゆくさ

大きな死小さな死なんてないといふ 草の穂つかむ空蟬が言ふ

 

小さな者に向ける眼差しの温かさ。その背後にある、作者の歩んできた道のりを思わせるものでもある。

 

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