足の裏なにかぬるつく雨上がりに素足で歩くカーリー寺院

須田 覚 『西ベンガルの月』 書肆侃侃房 2020年

 

インドのコルカタのダクシネーシュワル・カーリー寺院を訪れたときの歌。

作者はエンジニアで、2018年よりインド西ベンガルで工場勤務をしている。

カーリーは、ヒンドゥー教の、血と殺戮を好む戦いの女神。女神への捧げ物として毎日、山羊の首を落とす寺院もあるようだ。「花を持ち祈りの作法聞くうちに眉間に赤い印塗られる」という歌もあり、その寺院に入るには作法があるらしい。履き物を脱ぎ、素足になるのもその一つなのだろう。

この一首は、「足の裏なにかぬるつく」と二句で切れる。

雨上がりに素足であれば、泥のようなものなのかもしれないが、「なにかぬるつく」では泥とは言い切れない。ぬるぬるした感触の得体の知れないもの、そんなものを足の裏にじかに感じつつ歩くのは気持ちのいいものではない。

しかし、そこは〝郷に入れば郷に従え〟。どうやらこれが作者にとっては、インドで最初に受けた洗礼であったようだ。

気候・文化の違い、目の前にある貧富の差などなど。赴任したインドは、想像以上にこれまでの概念が通用しない、混沌と濃密な闇を抱え込んでいるところであった。頭による理解などでは到底追いつかない。

 

システムはいつか壊れる、いつの日かわからぬままにインドを生きる

 

「私」に「システム」のルビ。日本で培われたものが全く通用しない。このままではいつか自分は壊れる、そういう恐怖と不安を抱えながらも「インドを生きる」と言う。

ここで思い出したのは、詩人の小池昌代のこと。NHKの番組でコルカタを訪れ、滞在中に寝込んでしまったのだった。下痢がひどくなったようだが、むわんとする空気や匂いや圧倒的な人々のエネルギー、そうしたものに当てられてしまったのか。ここでの体験は、やがて『コルカタ』という詩集にまとめられたが、小池がこの時に体験したことも「システムが壊れる」ようなものであったにちがいない。

 

雨音を消して時間を見つめればすべてしみゆくインドの大地

滅びゆく躰洗えば魂は月の光に赤みを帯びる

土のうえ炎に焼かれ風のなか河へと帰る墓はいらない

 

こうした歌を読むと、自然に向き合い、原初的なところへ戻っていくような気もするが、たぶんそうはならない。エンジニアとして、どこかで折り合いをつけながら、力強く自らの生を更新していくことだろう。歌集をまとめたことがそれを証している。

 

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