田中 律子 『森羅』 ながらみ書房 2021年
母が押してくる乳母車には赤ん坊だった「わたし」が、「わたし」が押してゆく車椅子には老いた母が乗っているのだろう。ある日の午後、その二つがすれちがう。一瞬にして、母と「わたし」との間に流れた時間が了解される。
時間の尊さと残酷さと。作者は少し泣いたかもしれない。
週に一度動画がとどくヘルパーさんに支へられてる母のなみだ目
翠いろのしづかな蝶が庭にゐる十年ぶりに母帰るあさ
介護施設にいた母であったか。コロナ禍の中で、なかなか面会できなくなり、週に一度、母の様子を知らせる動画が施設から届く。ヘルパーさんに支えられている母が涙目だったのは、寂しいとか悲しいとかではなかったのかもしれないが、それを目にした娘にはやはり切なく映ったことだろう。
朝の庭には、翠いろの蝶がいる。その静けさが、帰ってきた母を迎えている。母はもうこの世の人ではない。施設で亡くなって、十年ぶりにわが家に帰ってきたのであった。
十年。母と「わたし」との間に流れた時間のうちの最後の十年が、施設にいる母とそこに通う「わたし」の時間であったということ。
今日よき日 むくげの上に翠の蝶あの子あのひとただに会ひたし
母の亡くなった後で見る「翠の蝶」は、作者に何を思わせたのだろう。「あの子あのひとただに会ひたし」と人懐かしい思いに誘われたようだ。
TOTOの便器捨てられし草はらを乳母車押し母とわれ行く
この歌では、母と「わたし」とが一緒に乳母車を押している。そこに乗っているのは、まぼろしの赤ん坊か。共に女であることが見させるまぼろし。そして、そこが「TOTOの便器捨てられし草はら」であるのは、なにゆえであったか。
人間が生きることの、美しくはない面。排泄に関わった上に、使い捨てられた便器がものがたるもの。それでも、この世に新たな命を生み、育んでいこうとする女たち。母と「わたし」を繫ぐものが明らかになる。一緒に乳母車を押してゆくイメージは、そこから生まれたのかもしれない。