客死はたのぞみしことのはるけくも死さへまどろむふるさとの墓

高崎 淳子 『あらざらむ』 本阿弥書店 2021年

 

「客死」とは、旅先で死ぬこと、よその土地で死ぬこと。

「はた」は、副詞。ここでは、上を受けて、それと同様であることを表す。「…もまた」といったところか。

知らない土地で死ぬことを望んで故郷をあとにした若い頃も、今や遥か昔になってしまった。長い旅を終えて戻ってみると、ふるさとの墓には死さえ微睡まどろんでいる、と詠う。

「まどろむ」は、うとうとと眠る、少しの間眠るということだから、いつか目覚めるときがあるかのような安らかさが、ふるさとの墓にはある。

出郷した頃の思い詰めたような感情を余裕をもって振り返ることのできる、そういう年齢にもなったということであろうか。

そうして作者が戻って来た故郷は、山口県山陽小野田市。

そこに和泉式部の墓があったのを知る。大学での卒論が「『和泉式部日記』論」だったという作者である。

恋多き和泉式部の生涯は伝説となり、語りの集団とも結びついて全国に運ばれ、和泉式部の墓とされているのは各地に二百余りもあるという。作者の故郷にあるのもその一つである。

 

うらうらをつたひ海人にもなりにけむ転生の墓ひとつここにも

紅き梅植ゑたき墓所ぞ享保の石は語らず川はせせらぐ

 

「うらうらをつたひ海人にもなりにけむ」は、和泉式部の歌「春の日をうらうら伝ふ海人あまはしぞあなつれづれと思ひしもせじ」を踏まえて、浦々を伝い歩いて海人にもなっただろうとその旅を思うのである。

墓石には、享保の文字が刻まれていたのか。平安時代の人に、江戸中期・享保の墓石。語りの中で、和泉式部は旅をしながら何度も何度も転生し、山陽小野田市埴生はぶでは江戸中期・享保に亡くなったことになっているのかもしれない。

実際の和泉式部ではないにしても、和泉式部の語りに関わった人(おそらくは女性)の存在を今に伝える墓は、さまざまな想像を呼ぶ。そして、考えてみれば、「『和泉式部日記』論」を卒論にした作者もまた和泉式部を語り、和泉式部に連なった一人であった。

石は何も語らないが、この墓に紅い梅を植えたいと思った作者。春に先駆けて凜々と咲く梅にして、色はくれない。「春は梅」と詠うほど梅の花を好んだ和泉式部は、「世の中に恋といふ色はなけれども深く身に沁むものにぞありける」とも詠っているが、その思いの丈の色としての「紅い梅」を、作者は墓に相応しいと思ったのだろう。

 

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