スタンドの傘がはずれて裸電球六十ワットがノートを照らす

花山多佳子『春疾風』

 

 

傘はなんとかしないのだろうか。
わたしの思い込みなのかもしれませんが、第一印象だとたったいま傘がはずれたようには思えず、傘はいつのまにかどこかに消えていて、むき出しの電球がスタンドに付いている、それをそのまましばらく使っている、みたいに思えました。

まぶしい。傘がないので電球の光がもろにくる。普通にちょっとまぶしい。
書いてないけどそれを想像してまぶしく、
また、三句四句「裸電球六十ワットが」は7・8で音が余っていて存在感があり、それが電球の光の加減のなさをあらわすように思えました。

まぶしいけどこのまま使うのは無理ではない。今はノートを使いたい。
このままいく。
そう決断したのではないか。わたしは生活の中でよくこんな決断をします。
それにしても傘がなくなってスタンドに立っている電球は見た目もおかしい。灯りをつければ、異様な存在感になってしまってシュールである。
それはそのまま生活のシュールさであって、生活ということが素朴に持っているワイルドさである。
わたしはこういう感じに読みました。歌集にあらわれる生活はリアルに混沌としていて面白いです。

 

そのへんに置きし珊瑚のペンダント戻れる息子の胸もとに垂る

 

そのへんに置いておいたペンダントを息子がつけて帰ってきた。そのままですが。これは新聞4コマ的なオチではなく、もう少し不可思議な感じがします。息子はこういうペンダントをつけたいのか、というのが今はじめてわかったのかと思う。そして「そのへん」にあった母親のペンダントをがっとつかんでいきなり付けていく息子のstyleもワイルドだなと思う。

 

微に入りて息子が語る出来事はなべて虚言とこのごろ気づく

 

深刻なのではないか。「なべて虚言」か。「このごろ」って。たくさんつっこみが浮かびつつ、この歌は、嘘の場合は逆にディティール細かく話す息子のパターンに一つ気づいたという歌なんですよね。

 

火をつけず吸ひし煙草が一日に四、五本息子の灰皿にある

 

いつの間に塗りしか真青なテーブルが出現したり息子の部屋に

 

息子がすごい。火をつけないでどうやって吸うのだろう。だんだん評ではなくなってきましたが、とりあえずこのあたりで。

 

 

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