橘 夏生 『セルロイドの夜』 六花書林 2020年
古びたジャングル・ジムを秋風が吹き抜ける。どこかの公園で見かけそうな光景だが、この一首はそういう歌ではない。
「古びたるジャングル・ジムの胎内を震はすやうに」とは、どういうことだ。
そもそも「ジャングル・ジムの胎内」って? ジャングル・ジムが、母体のように見られている。がらんどうにしか見えないジャングル・ジムが宿したものは、そこで遊んでいた子ども達、今はもう居ない子ども達だろうか。
鉄の棒を組まれただけの、目の前のがらんどう。居るはずのものが失われた、からっぽの空間は、秋風が吹けば震えるようなもの。古びてもいるのであれば、もはやその「胎内」を充たすものを期待することはできないのかもしれない。
古びたジャングル・ジムに、どこかで作者は自らの姿を重ねているのだろうか。
うつしよに在るかなしさよ木枯しのなかにジャングル・ジムは毀れず
もう一首あるジャングル・ジムの歌。
「うつしよ」は、現世、この世。ひらがな表記の「かなしさ」は、「悲しさ」「哀しさ」「愛しさ」のいずれでもあることを思わせる。
この世に存在することの「かなしさよ」と、軽い詠嘆があり、季節は進んで吹いているのは木枯しだ。
木枯しのなかにジャングル・ジムは毀れずに在る。
この世に生きていることの、耐えがたさと愛おしさと。
その後につづく歌をいくつか挙げてみる。
あかねさす昼のファミリーレストラン皓々として深き窖
避妊具がひとつふたつと落ちてゐる道を辿ればさくらはなびら
景徳鎮の皿絵の子らもひとりづつ踊りだしたり秋のはじまり
切子のグラスを割つてしまつたのはわたくしとキッチンをわたる秋風が告ぐ
雲の切れ間にかがやける近江の死者の笑顔をこそおもへ
最後に挙げた歌には、詞書のように「吊り革のあたりまよへる花虻は近江のくにへゆきて死ぬらむ 川本浩美」とある。川本浩美とは、作者の亡くなった前夫である。
人にはいつも帰ってゆくところがあるように思う。そこを中心にめぐっているようなところ。それは、一つとは限らないけれど。