永井 祐


ケータイで君と話せばくっきりと雨上がりのマンホールの蓋が

斉藤斎藤『渡辺のわたし』

 

 

昔からなんとなく好きな歌。
外を歩きながら携帯で通話していたら、マンホールの蓋が目に入ったという歌ですよね。
この状況が面白い。
話しながら視線を泳がせていて、偶然マンホールの蓋が目についた。
それが謎に「くっきりと」見える。
「くっきりと」を裏付けるように「雨上がりの」が言われ、水滴がついているマンホールが浮かぶ。あたり全体が雨上がりなんだけど、マンホールの蓋に特にその跡が残っている。

「くっきりと」の謎さがよくて、こういうことあるなと思います。
たぶん話していたので下の方に視線がいっていたのかと思いますが、ケータイの君との話とマンホールの蓋はとりあえず関係ない。偶然目についただけだと思います。
君との話にさほど集中してない感じはしますが、くっきりとマンホールの蓋が見えたことはとりあえず流して、歩行も会話も続いたんだろうなと思います。
そういうことが全体的に伝わってくる。

最後が「蓋が」で言いさしの形になっている。
(見えた)などが省略されているのかと思いますが、これによって、マンホールの蓋が妙にくっきりと見えたことが、意識のランダムの流れの中のちょっとした乱気流みたいにして起こったことがわかる気がします。
たとえば「マンホールの蓋」が体言止めになっていたら、歌の流れと意識がそこで止まり、焦点がしっかりそこに合う形になるかと思います。
この歌の場合は止まらないでそのまま流れていく。
口にも出さないし、(あ、マンホールの蓋がくっきり見える)みたいな心内語もないような、意識の流れの中の短い変な偶然みたいなものがとらえられているのかと思います。
それだから、とりあえず意味はないようなことで、それでいて歌の先に世界が実在している感触はある。雨上がりのマンホールの蓋。

ところで「ケータイ」という表記には時代を感じるかもしれません。これは2000年代初頭の歌だと思います。いわゆるガラケーで、当時は携帯電話のポジションが今とちょっとちがって、若者が電車内とかあちこちで使ってるのが年長者にはうざかったりとか、なにか公共空間を乱す軽薄なものみたいな雰囲気があった。ちょっと説明しにくいですが、「ケータイ」の表記を見ると当時の感覚を思い出したりします。

同じ一連からもう一首。

 

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