土岐 友浩 『僕は行くよ』 青磁社 2020年
たしかに、電車に乗って後頭部を窓にあずけるような座り方をすれば、揺れとともに電車の音をより強く感じられ、それと共に電車の動きもダイレクトに身体に伝わってくる。
この一首には、人が身体を通して感じたことを知覚するまでの一連の流れが表現されているようである。それは、改めて見るとちょっと不思議な感じがする。
「後頭部を」という出だしの言葉は、単に人体の部位を表しているようで素っ気ない。抒情性のようなものが入りこむ隙がない。この言葉の選択は、作者が医者であることが少しは関わっているだろうか。
「後頭部をつめたい窓にあずければ」という上の句に対する「電車の音が電車をはこぶ」という下の句。原因と結果を言っているようで、どうしてそういうことになるのか、なにかちょっと不思議な感じになる。
そして、「電車の音が電車をはこぶ」という表現。電車が動いているから音がすると思っていたのが、「音が電車をはこぶ」と言われては、ちょっと意表を突かれる。認識の順から言えば、自分の身体で感じたことがあって、頭による理解はその後に来る。それで言えば確かに、自分の身体で感じたこと=電車の音、頭による理解=電車をはこぶ(仕組み)となる。今までの概念が軽くひっくり返されるような面白さ。
それがあまり理屈っぽくなっていないのは、「電車の」「電車を」という繰り返しがあるからかもしれない。この繰り返しは、ガタンゴトンとでもいうような電車の音に重なってくる。
まるで海、ただ果てしなく広がってときどき白い骨を見つける
これは、モンゴルを旅したときの歌。
「まるで海、」と、初句のあとに読点を入れたところに、息を呑むような感じがある。「おおっ!」というような感動があったのだろう。
意味上は「まるで海、ただ果てしなく広がって」と続くのかと思う。この後で1拍空けた方が、一首の意味は分かりやすい。
だが、「ただ果てしなく広がってときどき白い骨を見つける」とそのまま続けられている。すこし捻れているような文脈。そこで読者は読みを探ることになる。謎を解くような読みがもたらす不思議な味わいがそこに生じる。
果てしなく広がるモンゴルの大地を「僕」は行く。そこでときどき目にした白い骨。死もまた当然のようにそこにあるのであった。大きなスケールのなかで自らの実感をもとに、生と死とがとらえなおされる。