葛原妙子『をがたま』
『をがたま』は葛原妙子の最後の歌集。年齢としては70代くらいの歌が入っているみたいです。わたしはあまり読んでいなかったのですが、今日ちらちら読んでいて気になる歌がいろいろあったのでやってみます。
今日の歌、平明かつ不思議な感じの歌かと思います。
が、「なりせば」の意味によってけっこう変わってくるのかもしれない。
「なりせば」は、仮定ととる場合と、理由ととる場合があるみたいで、
わたしは一読の印象として理由ととっています。
なので、石畳は平らなので~小さい犬が出てきて遊んでいることがある。ということかと思いました。
これは言ってることがけっこう不思議。石畳はだいたい平らな気がする。
そして、思索的な感じがします。
犬が出てきて遊ぶのは、平らだからなのだ。犬はごちゃごちゃしたところより、走り回れる平らで広いところが好きなのだろう。
そして「思ひいで」が面白いですね。
これは犬が「思ひいで」るのだと思います。犬に犬としての思考を想定している。平らな石畳を見て、ここで遊ぼうと思い出でる。
犬はあるところで思い出でて、石畳に出て行く。
「平ら」とは何か、「場所」とは、「犬」はどのような存在か、「遊ぶ」にはなにが要るのか。
「遊ぶ」こともある。遊んでいないこともある。
一首のはしばしから、こういう思索的な視線を感じます。小さい犬が石の上で遊んでいるところがくっきり浮かびつつ、世界の成り立ちについて考えている。
さめざめと汝が泣くところ 平凡のをのこのこどもただに泣くところ
これも面白いなと思いました。「汝」はおそらく「なれ」と読んで「なんじ・おまえ」の意。対等から目下の人に使う。「をのこ」は「男」、だから、目の前で男の子が泣いているところかと思います。
さめざめとお前が泣いている。平凡な、男性の子供がただ泣いているのだ。
みたいなところかな。
「平凡の」を入れてくるところ、ここで言わなくてもっていう感じもして面白いですよね。「普通の男の子が普通の男の子としてただただ泣いてるなあ」と思考をめぐらす。
「をのこのこども」という言い方も気になる。男性というものの幼体みたいなニュアンスが出てくる気がします。
この歌もやはり、平明な表現で「こども」について、「をのこ」について、「平凡」について「泣く」ことについて、思索する感じがします。
たぶん冷たいわけでもないんだと思うんですけど、考える感じはする。
微かなる日灼をたまへ青草と鳥の卵を食ひをる君に
近いところに出てくる歌で、同じ男の子(ひょっとして孫かもしれない)かもと思いました。
こちらは素敵な感じがある。汝に微(かす)かなる日灼をたまへ☆