久我 田鶴子


虹の余光身に浴びながら雫するタワービル群 夏の林よ

佐伯 裕子 「短歌研究」 短歌研究社 2021年10月号

 

「立ちても居ても」50首より。

雨上がりの都市。空には虹が出ている。まだ大気は充分に湿りけを含んでいる。

その虹の余光を浴びながら雫をしたたらせているタワービル群。無機質な高層ビルの林立が、いつもとは違って見える。

この歌の前には次のような歌がある。

 

大空に溶けてゆくビル、タワービルみんな一つに蕩けてゆけり

人として皮膚一枚にくるまれる私 そうそう溶けてゆけない

だらしなく輪郭ゆるむ虹だけど夕べの空に浮かぶ嬉しさ

 

雨上がりの湿度の高い空気の中では、都市のビル群も霞んで大空に溶けてゆくようだ。どのビルもみんな一つに蕩けてゆく。「溶けてゆく」から「とろけてゆく」へ。

輪郭をうしない、もはや一つ一つを区別することもできなくなり、空に同化してゆく。

そして、「人として皮膚一枚にくるまれる私」は、「だらしなく輪郭ゆるむ虹」と同様のことが自分の身にも起こっていることを自覚している。いつまでも若いままというわけにはいかない。受け入れがたいことも受け入れざるを得ない。時の過ぎゆきは残酷である。

だが、「そうそう溶けてゆけない」に表されている覚悟。それは「夕べの空に浮かぶ嬉しさ」に転じてゆく力でもある。それにしても、「嬉しさ」とは!

 

虹の余光身に浴びながら雫するタワービル群 夏の林よ

 

ここにあるのは、空に溶けてゆく、蕩けてゆくと見えていたタワービル群ではない。

虹の余光を身に浴び、かがやく雫に満ちたタワービル群である。そこに「そうそう溶けてゆけない」と言う「私」が重なる。

結句の「夏の林よ」の力強さ。それは、雫するタワービル群の美しさに対する感嘆であるとともに、自身へのエールでもあるのだろう。

余光のなかに立つ姿は、あるがままを受け入れてしっとりと美しい。

「立ちても居ても」50首の、掉尾を飾る一首である。