一つづつ言葉喪ひゆく日々の高きにありて向日葵三輪

内藤 明 「短歌」 角川書店 2021年10月号

 

「遠い夏の記憶」28首より。

人とも会わず、会議や授業もリモートでということが日常的になり、自分の中の言葉が少しずつ喪われてゆくように感じられる日々。

そういう日々の中にあって、健気に咲いている向日葵三輪。

「一つづつ言葉喪ひゆく日々の高きにありて」と繋いだ、助詞「の」の働きに注目させられる。

〝一つずつ言葉を喪ってゆく日々の高いところにあって〟と、コロナ禍の日常から視線を上げさせる位置が意識されている。

向日葵の丈の高さなど、たかが知れている。にもかかわらず、それを「高き」と感じるほどに私たちは身を縮めて日々を送っているのかもしれない。

そして、その「高き」に花を咲かせている向日葵。どう見ても立派に見えてくる。人間が一つずつ言葉を喪ってゆくような日々に、向日葵はよくやっている。輝くような花の色にしても、とてもかなわない。

コロナ禍の日常に身を縮めながら仰ぎみる向日葵三輪は、作者にとって励ましになっただろうか。それとも、いよいよ身を縮ませることになっただろうか。

 

過ぎぬれば忘れられゆく終末を幾たび越えて終末に立つ

底知れぬキャピタリズムの渦潮に朱塗りの椀はくるくる廻る

溜息が怒りとなりてゆふぐれの歩道橋より見るみぎひだり

 

現在がいかなる状況にあるのか。はるかに人類の歴史を振り返る。かなりのところまでいった文明にも終末が訪れ、やがていかにしてそれが訪れたかも忘れ去られ、同じようにまた文明は築かれ滅び去る。そうした繰り返しの先に今、私たちが立たされている此処は「終末」ではないのか。

あるいは、底知れぬキャピタリズム(資本主義)の渦潮にくるくる廻っている朱塗りの椀というのが、私たちが置かれている状況なのではないか。

鬱々としたものは、やがて怒りとなる。

怒る力が残っているのは、救いである。みぎ、ひだりと見渡しながら、これから進むべき方向を見いだせるかもしれない。

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