永井 祐


おほかたのわがこと過ぐと思はねどこころしづかに夜半よはありにけり

柴生田稔『春山』

 

 

昭和7年の歌。
明治37年生まれの柴生田稔さんのはじめの歌集『春山』の巻頭の歌になります。
経歴とか説明し出せばいろいろあるけど、とりあえず虚心に作品を見ようかと思います。

語彙が平穏なわりに、一読これ、言ってることあまりよくわからないですよね。
ん、となる。
上句は、

「おほかたのわが事過ぐ」と思はねど

というように、「と」より前が、「思はねど」の内容になると思います。
「過ぐ」は「過ぎる」という意味。だから、「自分のおおかたの事は過ぎ去ったとは思わないけれど」というような意味になるかと思います。
下句は逆接でつながっていて、「今夜は心しずかだなあ」ぐらいの感じだと思います。「けり」の過去の意味をはぶいてしまっていますが、感じとしては。

 

おおかたの事が過ぎ去ったとは思わないけれど、今夜は心しずかだなあ

 

これは平らに見えつつ、散文にしてみるとちょっと変で、いろいろ読み取れる。
「おほかたのわが事過ぐ」は、人生でたいがいの事は過ぎたというようなことでしょう。
「思はねど」だから、そう思わない。人生でこれから先もいろいろあると思う。
でも今夜はしずかだな、ということかと思います。

平らに直してしまいましたが、こういう内容を「おほかたの」からはじめて、「わが事」と抽象的に言いながら、「思はねど」と逆接になり、つながり方が一読でちょっとわからないような下句を続ける、
こう、人に説明するルートとまったく違うルートを通りながら、韻律の呼吸みたいなものがとても感じられる一首になっているように思います。
平らにして意味を整理して説明してしまうと、まったく消えてしまうような何か、過程とか時間のようなものが、大事に守られているのかと思います。

下句、「ありにけり」の主語は第一義的には「われ」だと思いますが、なんとなく、「夜半」が主語で、そういう夜があったというようにも見える。
一首全体が主語のない表現になっていて、そういうふくらみとか多義性をじわじわ呼び込むようになっている。

かなり純度高く「てにをは」の動きと韻律の呼吸で読ませるような歌に思え、方法的に面白く感じるのでした。