前川佐美雄『植物祭』
自由な感じがあって好きな歌です。
深夜に街をうろつくと、それだけで何もなくてもアナーキーな気分になる。
そういう感覚を言っている歌だと思います。わたしとしては。
十字路みたいなところにいるとして、
こっちの道はあの道につながり、あの道はずっと先で駅の方へいく。
あっちの道は進むと曲がっていて、川に沿った道につながっていく。
とか、当たり前というとそうですが、道はあらゆるところにつながっている。
「ここにつながる無数の道」はそういうような意味だと思います。
それを「たぐり寄せてる」。無数の道のつながりを頭の中で思い浮かべるようなことを、こう言っているのかと思います。
自分は「ここ」で動かないまま頭の中で、無数の道をぐいぐいこっちにたぐり寄せる。
こんな言い方の中に一人ぼっちの変なテンションがあり、それが好きだなと思います。
大事なのは「夜更けの一人ぼっちの変なテンション」みたいなことを文体がしっかり裏付けていることかと思います。
けっこう思い切った文体をしている。ほぼノーガード戦法的な感じですよね。切れなしで一首がそのままのっぺりとつながっている。
リズムのとり方がルーズである。「夜更けの」は4音で初句が字足らず(「よるふけ」と読む可能性もあるのか)、三句が「ここにつながる」の7音で2音の余り、「たぐり寄せてる」は7音ですがい抜き言葉だったりして、どうも全体的にビシッとした雰囲気がない。
こういう文体からにじみ出るものが一首のアティチュードを語っている。
言ってみれば、主体は手ぶらでだらっとしていて何も持っていなくて、自由だけを手にしている。そういう感じが全体的なこととして伝わってくる気がします。
たぶん、意識的にこういう文体/アティチュードを作っているんだと思います。口語的な感じもすごくする。
何んでかう深夜の街はきれいかと電車十字路に立つて見てゐる
この街をかう行つてあすこでかう曲りああ行けばあすこに本屋がある
平凡な散歩より今宵もかへりきて何かの蓄積におどろいて坐る
連作のタイトルはそのまま「深夜の散歩」で、ほかにこういう歌があります。
電車を見て、本屋への道をたぐり寄せたりして、帰ってきたら「何かの蓄積」がある。
「何かの蓄積」も「おどろいて坐る」も自由な言い方だなと思う。そして普通のいわゆる短歌っぽさから遠く、それへの反発がこういう語法を呼び込むところもあるだろうなと思います。