久我 田鶴子


問はれればくちごもりながらも言ふだらう はじまりは土、土と草むら

日高 堯子 『水衣集』 砂子屋書房 2021年

 

誰かに問われることがあれば、口ごもりながらも言うだろう。「はじまりは土、土と草むら」と。

問われなければ、自分からわざわざ言うことはない。でも、問われれば、口ごもりながらも言う。「くちごもりながらも」の中にある、躊躇ためらいとその逆の〝それでも言う〟という強さ。積極的に公言しようというのではないが、作者の中には確信のようにその答えはあるのだ。

「はじまり」、それは自らの原点。人生のはじまりであり、自らの表現の核をなすものである。作者は、それを「土」と言い、「土と草むら」と言う。

自らが生まれ育った土地と風土。それは、そこから離れてその後の人生の営みがあったにしても、分かちがたくその人とともにある。そのことを全面的に肯定しているのでもあろう。

 

樟わか葉椎わか葉輝るみなづきの上総はわれを生みたる土地ところ

 

「輝る」の読みは「てる」。この歌は、自らの生まれを詠っている。六月の上総生まれ。

房総半島の六月は、照葉樹の若葉でもっこもっこと盛り上がる。樟の若葉に椎の若葉。照葉樹と言うくらいだから、若葉の輝きたるや眩しいほどだ。そういう生命力に満ちた季節に生まれた作者。いや、六月の上総が作者を生んだのである。そのように作者は感じとっている。

この土、土と草むらの中から生まれ出た命。太々とした命の息づき。

両親の介護のために、都市にある自宅と里山にある生家とを頻繁に往復してきて、両親の亡くなった今は、月の三分の一ほどを里山で暮らしているという。空き家になった家の管理というだけではなく、そこでの日々を「樹や草や風とともに在る心地よさに身体が反応してしまう」とあとがきに書いている。

さらに、あとがきは「そこで日々発見する草木のみずみずしさやまがまがしさが、これまでの風景の記憶や想念などを呼び起こすことになり、歳を重ねた今のわたしにはそうしたことが何より大切に思えてきました。」と続く。

草木のみずみずしさを言うだけでなく、まがまがしさを言うところ、この作者らしいと思われた。

美しいところも、そうでないところも、丸ごと受け容れ、それが思索へと豊かに繋がっているのである。