永井 祐


裸にて働き居りし若者はやがて園内に自転車のりはじめつ

土屋文明『山谷集』

 

これは昭和9年の歌。
歌集の目次にそのように書いてある。
昔の編年体の歌集には、こういう風にけっこう、年次が記してある。
そしてそれは普通の順番で並んでいる。
ときどき不思議なのは、なぜか年だけがはっきりと明記されていること。
月日は基本書いていない。もちろん内容でだいたいわかったり、ときどき書いてあることもありますが。
どうも年頭に「大正~年」「昭和~年」とかだけを記すのが基本ルールのよう。
それも不思議な気がしますが、年が書いてあると、そのときの社会の様子の推測はできる。
うっすらとでも昭和史とかが頭に入っているとより面白く読める歌集は多い気がします。

いきなり脱線しましたが、今日の歌へ。
連作「吉野園再遊」のうちの一首です。なので、「園」とはこの吉野園のこと。
「吉野園」は全国にいくつもあるみたいですけど、戦前に葛飾区にあった吉野園のことのように思われます。戦時下の影響で閉園になりましたが、昔は名所だったそうです。

花を見る園に子供を連れてくるという連作ですが、今日の歌は花は見ていない。働いている人を見ている。
さっき上半身裸で働いていた人が、今度は自転車のってるよという、
まあそれだけの歌ですが、わたしはなんとなくこの歌が好きです。
なにかこう、どこにもたどりつかないちぐはぐなセンスというか。

園内で同じ人を見かけて、でもその人は、ときに裸だったり、自転車に乗ったりしている。
精力的に働いているんだと思いますが、そういう感想を言っているのとは違う。
同じ人が同じ園内で姿を変えていくことのなんとなく<変>な感じ、さっき見た人が違う形態であらわれること、違う形態の人がさっきの人と同じだと気がつくことの、微妙なずれみたいな感覚を、まとめないでそのまま書いているという感じなのかなと思います。
「裸」と「自転車」は、はっきりした対の関係も作らない。

韻律もたぶんポイントで、三句までは形式通りで、下句が8・10でぬるぬる余っていく。
ここの字余りと内容は切り分けられなくて、下句が7・7でビシッとしていたら、もうちょっとこう、主体の思うところがくっきりしてくると思われます。
しかしここではくっきりしない。形式ははみ出ていく。
なにか<変>があるような<ズレ>があるような気がしつつ、それは何かに結実するということもない。そんな感じの歌に見えます。
「やがて」の半端な時間の推移(数十分くらい?)も気になる。

連作中にはほかにもいろんな歌がある。下は連れていった子供が出てくる歌。

 

距離目測の練習しつつ工事中の国道をゆく夏吉と吾と

 

「距離目測の練習」とは、あそこからあそこまでは何メートルか、とか考えながら行くのでしょうか。子供と一緒に「練習」するのが面白く、「工事中の国道」も含めて、あまり絵にならない感じが、むしろいいなと思います。