遠藤 由季 『北緯43度』 短歌研究社 2021年
※「もみつ」に傍点
「もみつ」は、「紅葉つ」「黄葉つ」。上代語で、紅葉(黄葉)するの意。平安時代以後は濁音化し、「もみづ」となった。紅葉(紅葉)のことを「もみぢ(現代仮名遣いでは「もみじ」)」というのは、「もみづ」の連用形名詞である。
「こっくりと」は、色などが地味に落ち着いて上品なさまを言う。
一首は、「こっくりと深くうつろいゆくことをもみつと言いき」と四句で切れる。終わりの「き」は過去の助動詞の終止形。こっくりと深くうつろってゆくことを昔の人は「もみつ」と言いましたよ。古い言葉のよろしさ、そういう言葉を使っていた人々のよろしさを思うのである。地味ではあっても落ち着いて上品にうつろうことは、悪いことではない。
そして結句は、「手をひろげたり」。自分の手をひろげて見るのである。そこに見る年相応のうつろい。けれども、はるか昔の人が言った「もみつ」のように、「こっくりと深くうつろいゆく」ものならば、歳を重ねることによる変化も悪くはないでしょうと思いたいのだ。
われを置き粛々と変化してゆける皮膚、髪、眼 四十五歳の秋
次に置かれたこの歌のほうが言いたいことがはっきりしている。
四十五歳の秋。「われ」の中身は若い頃とそんなに変わっていないつもりなのに、それを置き去りにするかのように、皮膚や髪や眼は粛々と変化してゆく。「粛々と」がなにか厳かな感じで、静かだが容赦のないさまを表している。
「手をひろげたり」は、啄木の「じっと手を見る」と似た間合いの出方ながら、「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせし間に」という小野小町の嘆きに近いものだった。それでも「こっくりと深くうつろいゆく」ものならば……。