永井 祐


ひかりまばらな壁の震えを知るためにコンクリートの窪みに触る

堂園昌彦『やがて秋茄子へと到る』

 

これは初七ですね。
初句「ひかりまばらな」が七音。
さりげなく余ってる感じじゃなくて、はじめから七音だったかのように、けっこう派手に七音が置かれている。
すると上句が7・7・5となるので、初句と二句の音数が同じになる。
そして、この歌の初句と二句は文節分けすると同型になる。
「ひかり・まばらな」
「壁の・震えを」
3音・4音の構成が繰り返されていることがわかる。
さて、しかし、単純な繰り返しではなくて、
初句はひらがな、二句は漢字の印象があります。「光」は「ひかり」とされ、「ふるえ」は「震え」とされる。字数は7と5だしぱっと見はだいぶ違う。
内容的にも、漢詩の対句みたいな表現にはなっていない。歌は先へと進んでいく。

じっさいわたしは、「ひかりまばらな壁の震えを」だけでああいいなと思う。
シンプルに音の気持ちがよいということでもあるんですけど、
近寄ってみると、音韻上に繰り返しがあるのとか、その繰り返しの一回目と二回目が、表記上の色合いを違えているのに気がつく。
普通に言葉の意味を追うのと違う層にそういう運動があって、
「まばら」とか「震え」という言葉と共振するようにして伝わってくる。
そうして描き込まれたコンクリートの壁があらわれる。
ちょうど、遠くから見たり、近寄って見たりできる絵みたいな。
よく見るとある場所とある場所には相似があり、また別のところには対比がある。
コンクリートの壁が描いてあるだけなんだけど、時間をかけて見てしまう。
この歌はそんな感じがします。とりあえず遠くから一回すーっと読んだあとに、
近づいてよくよく見てみる。よく見る気にさせられる。

いちおう主体がでてきて壁の窪みに触りますが、それの心理的な意味とかはあまり気にしないでいい気がします。
主役はあくまでコンクリートの壁と光、あるいはそれを描くタッチということになる。

でも、光がただ当たっているのでなく、それが「まばら」であること。壁がそこにあるだけでなく、すこし「震え」ていること。こういう気づきには慰めがあるような気がします。
コンクリートの壁があって、そこで起っていることの複雑さを感じることができると、それは慰めになる。

そういうことも思う歌でした。