久我 田鶴子


食卓に林檎の時間うごきゐむ人の不在を澄みゆきながら

服部みき子 『シンクレール』 六花書林 2020年

 

ここにいるべき人がいない。そのひっそりとした寂しさ。

食卓に置かれた林檎は、赤い塊をなしつつ追熟の香りを放っているのかもしれない。林檎の中で、たしかに林檎の時間が動いている。

「林檎の時間うごきゐむ」、終わりの「む」は推量の助動詞。林檎の時間が動いているだろう、と推量する作者。そこに、「人の不在を澄みゆきながら」と続けている。

「人の不在澄みゆきながら」ではなく、「人の不在」としているところ。この助詞「を」の働きによって、「人の不在」ということが強く印象づけられる。ここにいるべき人がいないという、どうしようもなさ。それを静かに受け止めていることが、「澄みゆきながら」という表現に窺える。

林檎の時間に自分自身の時間が重なってくる。自己客観が、林檎の時間を言うことで果たされたのかもしれない。

 

ゆつくりと春近づきて東京の君の不在を包む夕焼け

 

こちらの歌は、ゆっくりと春が近づいている頃の、東京の夕焼けである。「東京の」と「夕焼け」の間に挟まれた「君の不在を包む」。

この東京の夕焼けは、「君の不在」を包むものとして存在している。つまり、夕焼けを見ながら、ここにはいない「君」を思っている。

目の前にあるもの、見えているものが、いないもの、見えないものを包んでいる。そして、心を占めているのは、目の前にいないもの、見えないものの方なのである。

 

長崎の夜が受話器にながれ来るここにゐるより近くきみ居て

声に出だせば消えなむほどの夕星を指につたへて吊り橋のうへ