(山中千瀬『さよならうどん博士』私家版, 2016)
何かを始めるとき、新しい環境に身を投じるとき、思い起こしては元気をいただく一首から、わたしの「クオリア」を始めます。
謎に包まれた人物、「うどん博士」。このうたを単体で読んでも、このうたの収められている連作を通して読んでみても、正体はまったくもってはっきりしません。
初出である「早稲田短歌」41号の連作の最後に、
降りしきるメリーゴーランドのしたでうどんのルーツを追ったりしよう
とあるので、この下の句をそのまま素直に飲み込むと、おうどんにとてつもなく詳しいひと、あるいは並々ならぬ情熱を注いでいるひと、とまでは読み込んでもよいのかもしれません。
その「うどん博士」の舌を焼く、「おうどん」。
せっかくの味覚や嗅覚が、熱くて痛い、という触覚に勝ってしまう。くちにするまではポジティブ寄りだった「熱々」の視覚や聴覚の情報を、それはひといきに台無しにする。
舌を火傷するとき、じつはわたしたちは五感のほぼすべてにダメージを負っているわけです。
「うどん」は、ありとあらゆる麺類のなかで、とびきり「海原」という表現が似合う麺でもあります。
例えば「荒野」とか、「いばらの道」とか、試練の多く険しい道のりを表す言葉はほかにもありますが、
麺と水との親和性、そして下の句のu音の頭韻によって、「うどん博士」が「復讐」をうたいつつも、なぜかとても生き生きとその「海原」を進む姿が思い浮かびます。
このうたで大事なのは、このふしぎな「生き生き」だとおもうのです。
それと、「おうどん」が茹でられる光景のひとつに、大きな太い一本の棒をたぐらせて、沸騰したお湯のなかを麺がぐるぐると回っているようなものがあります。
その様子も、なんだか荒波を越える船主のように見えてくるからふしぎです。
一年間、そんなふしぎな「生き生き」をこころのうちに、書いてゆけたらとおもっています。