田中拓也『東京』(本阿弥書店、2019年)
これも学校のうた。皆「おはよう」「おはよう」と言葉かわして校門をくぐる。前後のうたから、四月新年度、うたのわたしは新一年生を迎える、というような場面である。そうしてみると、初二句のことあげがにわかに実感をおびてくる。
「おはよう」というのは、「おはようございます」と丁寧に言ったりもするが、おはやいですね、ということで、感動詞かと言われると、そんなことないだろうとおもうのだが、辞書をひくと(ひかなくてもいいのだが)たしかに感動詞と出ている。そうか、感動詞なのか。文法の話なのだ。
それならばどうかと調べてみると、「ごきげんよう」も感動詞、「さようなら」も(挨拶の場合は)感動詞とある。ごきげんよう(感動詞)。さようなら(感動詞)。「こんにちは」「こんばんは」も当然感動詞。へえ、とおもいながら、でもこのうたは、「おはよう」ということばが感動詞だと発見するうたでも、教師らしく現代語文法としてのそれを教え諭すうたでもない。
いや、そういう部分(すなわち教師のかげ)もあるにはあるのだが、そこにとどまらず、感動詞の感動という部分がほのかにも熱をもって、新しい関係のはじまりをしずかに寿ぐようなところがある。それを自身かみしめながら、なにか浮つくようなこころを落ち着けようとしているふうでもあるのだ。初二句が比喩でない(でも比喩の気分ただよう)ところがいい。
リフレインというのは更新のレトリックだが、ここでも、繰り返される「おはよう」が一字あけを挟んでちがった位相のことばになっている。極端な話をすれば、うたは繰り返すだけでいい、そんなことをおもったりもした。