井上 法子


きみいなくなればあめでもひかるまちにさかなのようにくらすのだろう

大森静佳『てのひらを燃やす』角川学芸出版,2013

 

最近、ある著名人への追悼文のなかで、すべての文字がひらがなで書かれている文章を見かけました。
とつぜんの訃報をうけて、幼い子どもたちが触れる機会の多くある作品で、故人と共演したそのひとは、
自分の文章がかれらにも読むことができるように、そしてその不安な気持ちが少しでも和らぐように、との配慮があるのではないか、という考察がありました。

 

たしかに、例えばすべての文字がカタカナで表記されると、異星人の語りというか、イミヤショウタイガフメイノオンインヲヒロッテイルヨウナブンショウニナリマスガ(意味や正体が不明の音韻を拾っているような文章になりますが)、
すべての文字がひらがなである場合、それは何となく絵本を彷彿とさせられて、おさないひとをさとすような、どこかやさしいくちぶりになるのがわかります。

 

この歌も、すべての文字がひらがなに開かれています。
ここで呼びかけているのは「きみ」のはずなのに、語り手が実際に語りかけているのは、自分の幼いたましいに対してであるかのような、ふしぎなずれが生じています。

 

君がわたしの前から去ってしまったら、黙って静かに、魚のように暮らすのだろう。
でも、それは「あめでもひかるまち」。この作中の主体の世界でいちばんに輝いているのは「きみ」のはずなのに、わたしたちのまなうらには架空の雨の街がきらきらと、いつの間にか生まれている。

 

今回挙げたこの歌は、大森静佳氏の作品のなかでも、とびきり好きなものの一つです。